2013年5月14日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月13日~5月19日

5月13日(月)マタイ24章36節~44節
  その日、その時は誰も知らない 」(36節)。イエス様がいつ来られる(再臨されるのか)、それは誰も知りません。父なる神様だけが知っておられます。ノアの時代の人たちは、洪水が来るその日まで食べたり、飲んだり、めとったり嫁いだりしていました(38節)。つまり、この日常生活がいつまでも続くものだと信じて疑わなかったのです。しかし私たちの日常生活には終わりがあります。神様による終わりがあります。その終わりを計算に入れて生きることが求められている。それが私たちの人生なのです。目を覚ましているとは終わりを計算に入れていることです。

5月14日(火)マタイ24章45節~51節
  私たち信仰者は、イエス様が再び来られる再臨の日を待っている者です。待つと言っても、ただボーッとして待っているわけではありません。ここに記された忠実な僕と悪い僕の話は、その待つ姿勢/待つ生活を教えています。それは、目を覚まして、忠実な賢い僕でいることです。悪い僕は、当分主人は帰って来るまいと考え、好き勝手なことをしています。私たちは、主が突然来られた時に、その生活をのぞかれて困ってしまうような生活をしていないでしょうか。本気で、イエス様が来られることを信じて待つ生活をしているでしょうか。悪い僕は主人が戻って来ないと思い、仲間をいじめています。忠実な賢い僕は、仲間、すなわち他者をいじめるのではなく、他者を生かすために心を砕いて、主人の帰りを待つ僕でした。

5月15日(水)マタイ25章1節~13節
  賢いおとめと愚かなおとめの共通点、相違点はそれぞれどこにあるのでしょうか。共通点は、皆、花婿/イエス様が来るのを待っていたことです。イエス様を待ち望むという信仰を知っていたのです。2つ目は、10人皆、途中で眠り込んでしまったことです。相違点は、賢いおとめたちは、壷に予備の油を用意していたことです。賢いおとめも愚かなおとめも共に、眠り込んでしまいました。目を覚ましていなさいと力説されていたにもかかわらず(24章36節以下)。私たちは、この人間の弱さを忘れてはいけません。壷の油は、この弱さを自覚したおとめたちの適切な心配りだったのです。この油は聖霊を指していて、聖霊は弱い私たちを支えてくださる方なのです(ローマ8章26節)。聖霊の助けを求めつつ歩みましょう。

5月16日(木)マタイ25章14節~30節
  有名なタラントンのたとえです。このタラントン、元々はお金の単位なのですが、タラントンは何を意味しているのか。才能(タレント)だと理解する人もいますが、そのように理解すると15節はそれぞれの力に応じて才能を与えたという、意味の通らない文章になってしまいます。そこで私はひとりひとりが人生で神様から与えられる『 課題 』をタラントンは意味しているのだと理解します。その場合は課題はすべて、その人の力に応じて与えられているわけですから、私たちが人生で直面する課題は、自分の能力を超える課題は与えられていないということになります。そしてそのことが私たち信仰者の人生に対する基本的姿勢となるのです。

5月17日(金)マタイ25章31節~46節
   神様による世の終わりの時に行なわれる裁き、最後の審判について教えている箇所です。世の終わりにおける裁きの基準は、ただただ「 」であることが示されています。主に対する愛、隣人に対する愛です。主に評価されている人たちは、自分たちがした愛の業が小さかったゆえに、したことさえ忘れてしまっています。しかし、裁きの主はそれを覚えておられます。私たちが隣人対して行う小さな愛の業、自分でさえも忘れてしまうほどの業を、主はご自分になされた愛の業として受け止め、その心に刻み込むように覚えていてくださるのです。彼らのした愛の業は、決して打算的なものでなかったことは、彼らがそれを忘れてしまっていたことからも分かります。純粋に主を愛するがゆえに生まれた小さな愛の業だったのです。小さな愛の業を必要とする人と関わることは何らかの荷を引き受けることになります。しかしそこに踏み込まなければ、私たちは主と出会うことはないでしょう。

5月18日(土)マタイ26章1節~5節
  イエス様の十字架・・・そこにおいて神の企てと人間の企ては一致しました。大祭司、民の指導者たちはイエス様を憎み、殺そうと企んでいました。一方、父なる神様は、御子を殺すことにおいて顕になる私たち人間の罪を御子に負わせ、御子の十字架においてその罪を裁いて、罪の贖いをなそうと定められたのです。2節の言葉は、その神様の定めを示すものです。十字架において、神様と人間の企ては一致しましたが、十字架に関わられたその目的は、双方全く別次元のものでした。私たち十字架の真相を知る者の企てが、良い意味で神の企てと一致するように願います。

5月19日(日)マタイ25章6節~13節
  イエス様に香油を注いだひとりの女性。イエス様は彼女の行為を「 わたしを葬る準備をしてくれた 」(12節)と言われましたが、おそらく彼女自身はそういう思いでしたのではなかったでしょう。イエス様に対する愛と感謝の思いがその行動を取らせただけだったのだと思います。弟子たちはその行為を無駄遣いと言って非難しましたが、イエス様は「 世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう 」(13節)と、女性の愛と感謝から生まれた小さな行為をこんなにも大きく受け止め、そして用いてくださると約束されました。あなたの感謝からの小さな業が記念として用いられますように。