2013年5月14日火曜日


先週の説教要旨 「 私の願いが破れても 」 ルカ22章1節~23節

22章からイエス様の受難物語と呼ばれる箇所に入る。15節、「 苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた 」と主は言われる。切に願っていた・・・イエス様はずいぶんこの食事にこだわっておられたのだ。しかも7節~13節のところでは、その過越の食事の場所を用意するためにイエス様が事前に準備をしておられたことをうかがわせる事が記されている。イエス様のこの食事に対する切なる願いがあふれている。そこで思う。私たちは今までどれだけイエス様からの願いに耳を傾けてきたであろうかと。自分の願いにはいつも必死になる私たちであるが、今までどれだけイエス様のからの願いに自分の耳を傾けてきたことであろうか・・・。

それにしてもイエス様がそれほどまでに力を込めておられた願いと何なのか。「 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『 これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行ないなさい 』。食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『 この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である 』」という19節の御言葉がその願いが何かを示しているように思う。過越の食事は、イスラエルの民がモーセの時代からずっと行なってきた祭りの中の重要な儀式だが、神の律法によると、その食事の席で父親は子どもと問答をしながら、その儀式の持つ意味を教えるように命じられている。子どもが「 お父さん、この羊の血をどうして家の柱に塗ったの 」と質問し、父親は「 かつて我々の先祖はエジプトの国で奴隷となって苦しんでいた。先祖が神に叫び求めると、神は指導者モーセを与えて先祖をエジプトから脱出させられたのだ。エジプト脱出の前夜、先祖は1匹の傷のない羊をほふり、その血を家の柱に塗った。すると血の塗られた家だけは、神の裁きが通り過ぎ、血が塗られていなかったエジプト人の家には神の裁きが下った。それに音を上げたエジプト人は先祖たちを解放したのである 」と言った具合に、過越の食事の儀式に込められている意味を説き明かしたのである。イエス様は、弟子たちと一緒にその過越の食事をしながら、あたかも彼らの父親のように、この食事の意味を、イエス様ご自身によって与えられる食事への新しい意味付けを説き明かされた。それは十字架の予告。イエス様が過越の羊のごとく、十字架の上で、その体を裂き、血を流して死ぬ。それによって神の裁きはイエス様のところで止まってしまう。弟子たちのところにまでは及んで来ないようになる。あなたがたは私の十字架での死によって、その罪を贖われ、赦される。かつて先祖がエジプトの奴隷時様態から解放されたように、あなたがたは罪奴隷状態から解放されることになる。イエス様の願いとは、この食事の席上でそのことを弟子たちに伝えることであったのだ。一体、何という願いであろうか・・・。この願いを知らされた者は、もはや罪の奴隷状態にとどまることはない。解放されるのだ。それは願いがかなわない「 絶望 」という名の罪からの解放と言うこともできるだろう。

ところで、受難の物語はユダの裏切の出来事から始まっている(1節~6節)。ユダがどうしてイエス様を裏切ったのか、それは聖書の謎のひとつとされている。いくつかの理由が推測されているが、そのひとつはこうである。ユダは、イエス様に強い願い、期待を持っていた。「 この方こそ、イスラエルをローマから解放し、救う方なのだ 」と。だが、イエス様はユダが願っているような行動をお取りにならなかった。むしろ、反対に捕まって殺されるとまで言い始めた。そのときユダは「 自分は裏切られた、自分の願いは破られた 」と思ったのではないか。そのことがユダを裏切り行為と走らせた・・・。「 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。人の子は定められたとおりに去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ 」(22節)。イエス様はそんなユダのことを嘆いて、悲しんでおられる。ユダはイエス様を裏切ったあと、自分のしたことを深く後悔して自殺して行く。自分の願いが完全に破れ、自分はもう死ぬしかないと思ってしまったのだ。だが先ほどの19節の御言葉はそんなユダに向けて語られた言葉なのではないか。ユダもいたあの食事の場にイエス様の思いが響いている。「 ユダよ、今こそ、わたしの願いを思い起こしてほしい。わたしの願いは、あなたのために体を裂き、血を流すこと。わたしの願いは、あなたの罪を赦し、あなたがもう一回、神の御前で生き直すこと。だからわたしの願いを思い起こしてほしい。あなたの願いが破れても、わたしの願いは破れていないのだから・・・」。残念ながら私たちの願いは破れる時がある。その願いがどんなに正しい願いであったとしても、破れてしまうときがある。しかしイエス様の願いは破れない。私たちのために十字架を背負い、罪を赦し、私たちがもう一回、神の前で生き直すことを切に願う、そのイエス様の願いは破れない。私たちを生かす願いはここにある。アニー・サリヴァンさんもヘレン・ケラーさんも、このイエス様の願いに支えられるようにして、絶望の淵から立ち上がり、主の栄光をあらわす人生を送られた人たちだ。私たちは今、聖餐に与る。主の切なる願いを私たちうちに刻み込もう。 (2013年5月5日)