2013年5月6日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月6日~5月12日

5月6日(月)マタイ22章41節~46節
  先の34節のところから、聖書をどう読むかが問題になっています。ファリサイ人たちは、メシアをダビデの子と呼び、ダビデ王のようにユダヤの国の繁栄を回復されてくれる者というイメージを抱いていました。自分の願いから聖書を読み込んでいたのです。でも、救い主メシアはユダヤを支配していたローマ人にとっても救い主となるような、もっとスケールの大きな救い主だったのです。本当の救い主は、ユダヤ人のための、という領域を越え出ています。大切なことは、霊を受けて(43節)、聖書を読むことです。それは、聖書によって自分自身の生き方が読み込まれて行くことであって、自分の願いから聖書を読み込むのではないのです。聖書によって自分の生き方が読まれ、そして正され、導かれて行く読み方をしましょう。

5月7日(火)マタイ23章1節~12節
  言っていることと行なっていることが違うということ(3節)、これは小さいことではありません。要するに虚偽・偽善なのですが、この虚偽・偽善は良いことを言いながら悪いことを企んでいるとか、出来もしないことをさも出来るかのように装っているとか、建前で本音を巧妙に隠しているとか、単にそういうものではありません。虚偽・偽善とは、自分を守り通すためには一切を、たとえそれが神であろうと、一切を利用としてはばからない『 自己神格化 』なのです。人間を駄目にするのは、まさにこの『 虚偽・偽善 』という罪なのです。

5月8日(水)マタイ23章13節~28節
  イエス様から厳しい非難を受けてしまっているファリサイ派の人々や律法学者たち。彼らは「 偽善者 」(15節)、「 外側は美しく見えるが、内側はあらゆる汚れで満ちている 」(27節)と言われています。結局は、彼らの自分を見る目が曇っていたということではないでしょうか。私たちの自分を見る目は常に自己弁護によって曇っています。冷静に反省しながら自分を見ていると思うかも知れませんが、違うのです。自分におもねり、自分に味方する心が常にあるために、気がつかないだけなのです。自分が自分の敵となり、自分と格闘することなしには、それに気がつくことはありません。自分との格闘なき反省は、巧妙な自己弁護に他なりません。自分を見る目を比較的信用できるのは、自分自身と格闘しているときだけです。

5月9日(木)マタイ23章29節~39節
  旧約聖書からイエス様の時代にかけてのイスラエルの歴史は流血・殺人の歴史です。エムサレムでは多くの人たちの血が流されました。彼らは正義の名をもって、預言者たちを殺し、そしてイエス・キリストを殺しました。今日でも、人々の唱える正義の名によって、エムサレムでは血が流されています。人を殺してまでも守らなければならない正義って、一体、何なのでしょうか。そんな正義、本当に存在するのでしょうか。一体、いつから私たちはそんな錯覚を抱くようになったのでしょうか。唯一の神を見失い、それぞれが小さい神々に成り上がり、自己流の正義を振り回し始めた時からでしょうか。エルサレム、エルサレムと嘆かれるイエス様の声が今も世界中に響いています。

5月10日(金)マタイ24章1節~14節
  はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない 」(2節)。建てるのに46年もかかった神殿ですが、やがて崩れ去るということをイエス様は見通しておられました。神殿が壊れると聞いた弟子たちは、いつ、そのようなことが起きるのですかと尋ねると、イエス様は世の終わりの時について語り始められました。世の終わりには、すべてのことが明らかになります。私たちが自分の人生において、長い年月をかけて築き上げて来たもの、自信、家庭、地位、業績、財産、伝統、制度、人生観・・・。「 残ることはない 」(2節)ものだけで、あなたの人生が構築されているとしたら残念なことです。最後まで残るものによって、あなたの人生が造られていますように(Ⅰコリント13章13節参照)。

5月11日(土)マタイ24章15節~28節
  イエス様が再び来られる時、世はいまだ経験したことのない艱難を味わっています(21節)。そのような苦しみの中で、主は無理に戦わずに「 逃げなさい 」(16節 )と言われています。この大いなる悩みの日には、信仰を軽んじていた人々が、信仰者の裾をつかんで、あなたが神と共にいることがわかったから、私も一緒に連れて行ってくれと言うことでしょう。私たちがどんな困難に遭っても確信に満ちて信仰を棄てない姿を見るからではありません。信仰者も逃げざるを得なくなるのです。しかし神を信じ、望みを持って逃げる姿に、彼らは心動かされるのです。主は私たちの「 悩みの中にあって生きる姿 」をよく知っていて下います。

5月12日(日)マタイ24章29節~35節
  はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない 」(34節、35節)。人間がどんなに愚かなことをしたとしても、この余波滅びることはないと主は言われます。なぜなら、この世に滅びをもたらすことがおできになるのは神、おひとりだからです。神は、ご自分以外の者が世を滅ぼすことをお許しにならないのです。神がこの世を滅ぼされる時、それは新しい天と地がなるときです。滅びることなき主の言葉につながっていた者は皆、滅びを逃れ、新しい天地に生きることになります。神による世の終わりは、信じる者にとっては新しい始まりなのです。