2013年4月29日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月29日~5月5日

4月29日(月)マタイ21章23節~27節
何の権威でこのようなことをしているのか 」といきり立つ祭司長たちは、自分たちこそ権威者であって、その我々の許可もなくこんなことをしやがって・・・という思いで、イエス様を詰問します。彼らの主張する権威とは、「 群集が怖い 」(26節)と恐れる程度の権威です。偽りの権威にこだわらず、本当の権威の前にひざまずくことを知る者でありたいですね。本物の権威に身を委ねる時、私たちは不安や恐れから解放されるのです。この道の権威と言われる医者に身を委ねる患者は皆、恐れから解放された平安な顔で手術室に向かいます。主は真の権威ですよ。

4月30日(火)マタイ21章28節~32節
  兄と弟を持つ父親の話。今日、ぶどう園に行って働けという父親の言葉に、兄は「 いやです 」と答えたが、「 後で考え直して 」出かけました。弟は「 承知しました 」と調子よく答えましたが、結局行きませんでした。私たちは父なる神様からの言葉にどのように応えているでしょうか。聖書の教えを知っていても、それは「 いやです 」と意地を張ってしまうことがありますか。でも大切なことは「 後で考え直して 」という逆転です。「 神様の望み通りに 」と言って逆転する人は幸いです。

5月1日(水)マタイ21章33節~46節
  ぶどう園の主人と農夫たちの物語は、神様と私たちの物語です。農夫たちは、神様の所有物であるぶどう園をお借りして、豊かな収穫を得ることを求められましたが、いつしか彼らはぶどう園そのものを主人の手から奪おうと考えるようになりました。そのためにぶどう園は流血の場、不毛の地に変わってしまいました。私たちも神様から人生と言う名のぶどう園を借りています。家族や職場、友人・・・それらのものも神様から貸し与えられているものです。ぶどう園はちゃんと収穫が得られるように、神様が丹念な準備をした上で貸してくださっているものですが(33節)、これは自分の所有物、自分が自由に支配できるところと思い始めるとき、人生は不毛の地に変わってしまいます。それでも神様は、私たちが捨てた御子をあなたのぶどう園再建の礎にしてくださいました。それはまことに不思議なことです。

5月2日(木)マタイ22章1節~14節
  婚宴に招かれていたのに、当日ドタキャンした人たちは、王の招きはすべての事情に優先するということを真剣に考えてはいませんでした。一方、代わって招かれたけれども礼服を着ていないと怒られた人もいました。着ていなかったのは彼ひとりで、彼が黙っていたことを考えると、非は彼にあったのでしょう。招かれて有難迷惑な人も、予定を変更せねばならないので困った人もいたでしょう。しかし、とにかく招かれて婚宴の席に入ったのです。ならば、もはやそこでは自分の都合を数え上げて、つぶやき続けるのは失礼というものでしょう。いろいろな都合はあるとしても、席に入った以上は「 おめでとう 」という気持ちで列席するのが礼儀です。招かれていながら、心そこにあらずということほど、非礼なことはありません。私たちも招かれて、信仰の道を歩み始めているのです。

5月3日(金)マタイ22章15節~22節
   皇帝への納税を認めるか否か、ファリサイ派の人たちはイエス様をはめようと質問してきました。納税を認めると言えば、ローマによるユダヤの植民地支配に協力すると言って群集の人気を低下させられるし、認めないと言えば、ローマに反逆者として訴えるという罠です。そういう彼らは皇帝にちゃんと税金を納めていたのです。ですから、皇帝のものは皇帝に返せと言うのは、あなたたちがいつもしているようにしなさいと言う意味です。その上でイエス様は、「 神のものは神に返しなさい 」と言われました。こちらの方がより重要なテーマです。私たちの人生、命は神のものです。ならば、それを神にお返しするように生きましょう。それは神に栄光を帰す生き方、私のすべてが神の栄光をあらわす歩みとなるように・・・です。 

5月4日(土)マタイ22章23節~33節
  サドカイ派は、イエス様から「 聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている 」と言われてしまいました。「 思い違い 」と訳された言葉はギリシャ語では、「 迷い出た 」という言葉で、あの羊のたとえ話に出てくる言葉です。単なる勘違いどころではなく、霊的な命にかかわる大問題だと言うことです。私たちにとって神の力が分からないというのは、それほどの問題になるのです。復活は当然あるとイエス様は言われます。生きておられる神は、ご自分の前にある死んだ者を生かさずにはおれないのです。神の愛がそれを激しく求めるからです。私が生きているのであなたがたも生きる、それで復活の証拠は十分だろうと言われるのです。この方の御前にあっては、死んだ者も無意味に思えた努力も、実を結ばなかった業も、すべてが生きる、すべてが意味を持つものとして起き上がってくるのです。

5月5日(日)マタイ22章34節~40節
  神である主を愛すること 」、そして「 隣人を自分のように愛すること 」。それが聖書の教えの核心です。神を愛することは難しいと私たちは考えてしまいます。でも、こう考えることから始めたらどうですか。愛するとは、まずもって相手の気持ちをそのまんま受け止めてあげることでしょう。神様は欠けだらけの私たちをどんなに愛してくださっていることか、まずその神様のお気持ちを受け止める。神様を愛することはそこから始まるのです。次に、神様が愛してくださっている自分なのだから、私もこの自分を愛してみようと思う。そうやって愛は広がるのです。