2013年4月16日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月15日~21日

4月15日(月)マタイ18章1節~5節

弟子たちは「 いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか 」と言いました。「 偉い 」と訳された言葉は原文では「 より大きい 」という言葉です。私たちは他者と自分を比較して、どちらがより「 大きいか 」、すなわち能力があり、存在価値が大きいかということを気にして、より大きいことに価値を見ようとします。弟子たちはその価値観を天国にまで持ち込もうとします。しかし神様のもとではそういう価値観は存在しません。天国では意味を持たない「この世の価値観」から解放されながらこの世を生きる。言い換えると、天国の価値観をこの世に持ち込んで生きること、それが信仰に生きることです。そこには当然、戦いや葛藤も生じますが、この世の価値観から「 解放されている 」という爽快感と自由があります。

 

4月16日(火)マタイ18章6節~9節

信じる者をつまずかせてしまうところの罪というものが、いかに恐ろしいものであるかが語られています。罪を犯す手足を切り取れと言われていますが、その通りに理解して、自分の手を切ったり、目をえぐり出したりする必要はありません。なぜなら、私たちに代わってイエス様ご自身がその肉体をもって、罪に対する報いを受けてくださったからです。この個所の「 気持ちが悪くなるような表現 」の中に、私たちはイエス様の十字架の出来事を読み取ることができる幸いを与えられているのです。イエス様の犠牲というところから、私たちは人をつまずかせる罪、あるいは人につまずく罪を真剣に考え直してみなくてはなりません。

 

4月17日(水)マタイ18章10節~14節

99匹の羊のたとえは、神様の民の家である教会においては、1>99という数式が生きて働くところであることを教えています。1匹の羊の存在は重いのです。1匹の羊のために、他の99匹が力を合わせて、迷い出て神様のもとを離れて行ったその1匹を救出する、教会はそういうところです。ある中学では、新年度のクラス編成が終わった後に、新しく転校生が来ることになり、その一人の転校生のためにクラス編成の作業をもう一度、一からやり直したそうです。中学校の判断は立派であったと思いますが、教会ではそれがあたりまえに通用するのです。小さな者のひとりでも滅びることがないように、それが神の御心だからです。

 

4月18日(木)マタイ18章15節~20節

二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである 」(20節)。とても有名なイエス様の約束の言葉ですが、この言葉が語られた文脈は、罪を犯した教会の仲間がその罪を神様に告白し、赦しを得て再び教会の一員として歩み出せるように、という文脈の中で語られたのです。つまり、兄弟を得るために祈りを合わせる、そこに主が共にいて働いてくださると約束くださったのです。そのような祈りは必ず聞かれます(19節)。しかし、自分の犯した罪をかたくなに認めない者は、異邦人か徴税人のように扱え(17節)とあります。冷たく聞こえるかも知れませんが、そうではありません。徴税人はイエス様があえて彼らのところに出向き、招いた存在でした。普通の人以上にイエス様がその魂を熱心に求めた人たちなのです。教会はこのイエス様のお姿にならうのです。

 

4月19日(金)マタイ18章21節~35節

1万タラントトンの借金を帳消しにしてもらった家来が、100デナリオンの借金をしている仲間のそれを帳消しにしてあげなかったというたとえ。このたとえ話は、28節から始まっているものとして読むと、この家来の行動は当たり前で、非難されるべきことではないのです。でも問題は、この家来の物語が28節からではなく、24節から始まっていることなのです。24節~27節の前段階があるからこそ、家来の行動は非難されるのです。あなたはどこから始めていますか。私は誰かに貸しがある、あの人から取り立てる権利があるというところから生き始めていませんか。本当は、神様に借金(罪)を免除していただいたということから、あなたの人生は始まっているのですよ。どこから生き始めるか、それが重要です。

 

4月20日(土)マタイ19章1節~12節

旧約聖書に登場するアブラハムという人は、妻サラの死に遭遇して慟哭しました。あやしい空気の漂ったことも多々ある結婚生活でしたが、「 神が結び合わせてくださった 」ということが形となって現れるように、二人の絆は山越え、谷越え、次第に熟成されて行きましたね。それは麗しいありようなのですが、離婚は絶対にいけないと、杓子定規に聖書が教えているとは思いません。内実は離婚と同じような生活になってしまっていて、離婚して新しい歩みをそれぞれに模索した方が良いと思われるケースもあるでしょう。イエス様は離婚を悲しまれるでしょうが、ダラダラと不幸な関係を続けて、立ち直れないでいることも深く悲しまれるのです。離婚に関する教えが、赦しを教えるたとえに続いて語られている点を心に留めましょう。

 

4月21日(日)マタイ19章13節~15節

幼い子どもは、状況判断ができる年齢になっていないので、相手のことを考えずに思ったことをはっきり口に出したり、わがままな行動をすることがあります。イエス様が「 このような者たち 」(14節)と言っておられるのはそういう子どもの面ではなく、親に対する素直な信頼を持つ子どもの面です。子どもは親を絶対的な存在として信頼しています。そして、親がいないと自分は生きられないと思っています。だから失敗して親に叱られても、繰り返し、親のところに戻って来ます。