2013年4月21日日曜日


先週の説教要旨 「 裏切られない希望 」 ルカ21章20節~28節

 「 それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである 」(25節、26節)。ここを読んで2年前の東日本大震災のことを思い起こされた方も多いだろう。震災の前まで、私たちは「 もっと便利に、もっと快適に 」という生き方をしていた。しかしその生き方は、あの津波によってたちまちのうちに失われた。何年、何十年かけて努力し、築き上げて来たものが、一瞬のうちに失われた。私たちはあらゆるものが津波に飲み込まれて消えて行く映像を見て言葉を失った。自分の心が受け止めることの出来る範囲を超えたことが目の前で展開されていたから。あの大震災と津波で私たちの体験したこと・・・それは、この日常生活が終わりを迎えてしまうときがあるということだったのではないか。このままいつまでも続くであろうと思っていた生活が突然断ち切られたのだ。それは聖書が予告している「 神による世の終わりがある(その時、私たちの日常の営みはすべて完全に断ち切られる)」ということを強く意識させることになったのではないか。私たちのうちで、現実味を失いかけていた世の終わりを垣間見せられたのである。

そのような体験を強いられるところで、イエス様は「 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ 」(27節~28節)と言われる。身を起こして頭を上げなさい・・・・。日常生活が突然断ち切られる体験、それはうなだれて、縮こまり、ため息をつくような体験ではないか。だが、主はそのときこそ、身を起こして頭を上げよと言われる。「 希望が失われた 」と愕然とするところで、なお奪われない希望があなたにはある。キリストこそ、私たちの最後の希望、真の希望であることを「 信仰 」をもって見上げようと・・・。その希望が確かなものであったことは世の終わりの時にはっきりと確認されるのであるが、今は信仰の目によってしか、その確かさを見ることはできない。私たちは信仰によって、世の終わりの時のキリストの勝利を垣間見るのである。

ジョン・バンヤンが書いた『 天路歴程 』は聖書についでよく読まれている書物であり、天国へと巡礼する信仰者の物語を描いたものである。途中、主人公は巨人絶望王の領地に入ってしまい、懐疑城に閉じ込められてしまう。絶望王はたびたびやって来ては「 もうここからは出られないのだから、自殺しろ 」と主人公をいたぶる。悩み、苦しみもだえ続けて一晩を過ごした翌朝、主人公はあることを思い出す。自分の懐には城のどこの鍵をも開けることのできる「 約束 」という名の鍵があることを思い出すのだ。どんな方法で城を抜け出すのかと期待をした読者は肩透かしを食らったようなものであるが、それが私たちの現実なのではないかと思う。約束を手にしていながら、それを持っていることを忘れて、絶望に閉じ込められて、疑いの中に入り込んでしまう・・・・。主こそ私たちの希望、主は私たちをその希望にすがるようにして身を起こし、頭を上げて生きられるようにしてくださる。

 世の終わりに人の子イエス様は、私たちに解放をもたらす(28節)。私たちは、自分を縛り付けていたものから解放されると言う。たがあの震災の時にも、その解放というものを垣間見せていただいたのではないか・・。あのとき、人々は変わった。すべての人が「 受けるよりも与える方が幸いである 」という聖書の教えを体現するような生き方を始めた。「 自分を愛するようにあなたの隣り人を愛しなさい 」という聖書の教えを実践するような生き方を始めた。隣人と競い合い、時には蔑み、あるいは隣人を自己の利益のために利用する日常生活から、「 愛 」を優先することに生き始めた。それは創世記1章に記されている神にかたどって造られた人間の姿を取り戻した姿ではなかったか。本来人間は、神が喜ばれることに喜びを感じ、神が悲しまれることに悲しみを感じる者として造られている。神にかたどって、すなわち神に似せて造られているのである。あの震災のとき、確かに人々の中に眠ってしまっていた「 神に似せて造られた面 」が目覚めたのだ。震災を契機にして、神の似姿として造られている本当の人間の姿が現れ始めたのだ。だが、それは長くは続かなかった。日常生活が戻ってくるに連れて、再び消え始めた。あれは非日常の生活をしていたときだけのことなのか。あの生き方をそのまま維持できないのであろうか・・・。否、それを維持させるのが礼拝なのである。聖なる神の御前で、神の言葉に触れる中で、私たちは聖い生き方へと絶えず引き戻されるのである。礼拝が行なわれる主の日のことを安息日と言う。ヘブライ語ではシャバットと言うが、これは「 断ち切る 」という意味の言葉なのである。安息日には、すべての日常生活を断ち切って神の御前に出る。だから神の御前に進み出ることは私たちにとって非日常の生活と言える。その非日常の中でこそ、私たちは日常生活で受けている様々な縛りから解放される。神に造られた人間としての姿を取り戻す。神の御前に進み出るという非日常を日常生活の一部として生きるところで、私たちは神の似姿としての歩みを維持することができるようになるのである。(2013年4月14日)