2013年4月16日火曜日


先週の説教要旨 「 耐え忍び命を勝ち取る 」 ルカ21章5節~19節

 私が洗礼を受けて間もない頃、せっかく信仰を持ったのだから、自分で聖書をしっかり読んでみようと思い、解説付きの聖書を買った。そして表紙をめくった最初のページに「 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です 」(ヘブライ10章36節)の御言葉を毛筆で書き記した。あまりにも字が下手なので、人にも見せないし、自分でもあまり見ないようにしている。だが本当は、この御言葉はどこかに隠してしまっておくようなものではなく、むしろ高く掲げていつもそれを見上げて歩むべき御言葉なのである。そしてこの御言葉と呼応するような御言葉が今朝の「 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい 」(19節)なのである。忍耐、これは聖書がしばしば教える信仰者の道である。忍耐を教える教えは、聖書でなくてもいくらでもあるが、聖書こそ真の忍耐を教えるものであると思う。耐えるということは、信仰者が真実に信仰に生きるために心得るべき鍵である。私たち信仰者にとって最も大切なことは、愛に生きることだということは皆が心得ているだろうが、その愛について語っている最も美しい言葉が記されている「 愛の賛歌 」と呼ばれるコンリントの信徒への手紙Ⅰ第13章には、「 愛は耐える 」ということが2回、繰り返して言われている。愛に生きるためには耐えることを知らないと、それは不可能なのであるとパウロは言う。

「 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい 」とイエス様は言われる。忍耐と訳されている言葉は、ある物の下にジーッと留まるという意味を持っている。部下などと言う言葉があるように、誰かの下にずっといるとか、ある状況のもとに居続ける。何かの下にいるというのは、重い、苦しい。だが、逃げ出したいと思っても、そこから出ないようにと自ら決意を保つ。それが忍耐の意味。私たちは今、ジーッと我慢していれば、やがてその重荷が取り除かれて、光が射して来るのだ。だから我慢しようと考える。しかし聖書の言う忍耐とは、それとは少し異なる。聖書が告げる忍耐とは、嵐の中にいても、すでに光が射し込んで来ている。その光に支えられるから耐えることができる、それが聖書の忍耐である。子どもの頃、台風の目というものに遭遇した。激しい嵐がやってきたかと思うと、突然、無風状態になり、やがてまた激しい嵐に戻る。激しい風雨に囲まれている中、ピンポイントで平安な静けさのある台風の目という場所がある。信仰にもそのような台風の目のようなものがある。忍耐を求められるような状況下にあっても、主がそこにおられるとき、そこには平安が生まれる。その主が与えてくださる平安に支えられて立っているというのが聖書の言う忍耐である。讃美歌529番「 主よ我が身を とらえたまえ 」を作ったジョージ・マセソン牧師は、かなりの年齢になってから失明し、しかもその時、愛した女性の愛も失って独身を強いられるようになった。その逆境にあって、かえって深い信仰に生き、多くの賛美歌と深い慰めを伝える人となった。マセソン牧師がよく祈った祈りの一つは「 不平を言いたくなるような嵐を過ぎ去らせてくださいというのではなく、今、この嵐の中で、絶望に落ち込むのが当たり前だと思う現実の中で、聖なる喜び、神を賛美する歌声が生まれますように 」であったと言う。ここに、聖書の言う忍耐に立っている人の姿を見る。

 だが耐えるということは、用意なことではない。「 堪忍袋の緒が切れた 」という言い方があるが「 緒 」とは糸を寄り合わせたものであって、ある限界に達すると切れるものである。ワイヤーロープのように強くはない。私たちの忍耐は、決して切れない丈夫なものではない、という先人の経験が生んだ言葉である。そんな弱い忍耐しか持ち合わせていない私たちが、本当に耐えられるだろうかと思うかも知れない。だが、聖書の言う忍耐は私たちの強さによるのではなく、主の強さによって支えられる忍耐なのである。この忍耐についてのイエス様の言葉は、世の終わりについての教えの中の一節である。世の終わりには政治的混乱、大地震、疫病や飢饉が起こり(10節、11節)、世は揺れ動く。だがそれに先立ってまず教会が揺れ動くと言われている(12節)。迫害が起こるのだ。その時、私たちは迫害する者たちの前で何を言おうかと心配しなくていい。主が語るべき言葉を与えるから・・・と言われる。この約束は、信仰とは「 自分の力に頼ること 」ではなく、「 自分のうちに働かれる神の力を信頼すること 」であることを示している。自分の内に働く神の力を信じるのだ。忍耐力のない自分の内に働く神の強い力を信じる。主はそのことを信じるように私たちに強い促しを与えておられる。この迫害を予告する言葉 を読んでいると、これはイエス様ご自身において起きることだと気づく。そう、私たちに先立って、イエス様はこの迫害の嵐を経験されるのだ。長く不登校が続いていた高校生の男の子・・・親や先生、周りの者が何を言っても心を閉ざしていた彼は、「 わたしも同じ不登校だったんだ。でも、大丈夫だよ 」と、牧師がそっと彼の肩を引き寄せて言った一言で、立ち上がる勇気を得た。同じ体験をした者が告げる一言には、人を立ち上がらせる力を持つ。私たちに先立って迫害を受けられたイエス様が、「 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい 」と私たちに言われる。そこには、主の確かな支えが約束されているのだ。 (2013年4月7日)