2013年4月21日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月22日~28日

4月22日(月)マタイ19章16節~30節
  永遠の命を得たいと願っていた青年、彼は「 そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか 」(20節)とイエス様に尋ねました。イエス様は「 もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい 」(21節)と言われました。それを聞いて彼は悲しみながら立ち去りました。しかしそのとき、イエス様はもっと悲しまれていたのです。ご自分のもとを立ち去って行く彼のことを見つめながら・・・。そういうイエス様の愛を彼は分かっていなかったのです。お金は大切なものですが、それにも勝って自分がイエス様に愛されていることを知ることは大切なことです。そして、それが分からなくなることほど、私たちにとって悲しいことはないのです、本当は・・・・。

4月23日(火)マタイ20章1節~16節
  このぶどう園の主人はとても「 気前のよい 」(15節)方ですね。労働時間に関係なく、皆に同じ賃金を支払ったのですから。長く働いた者からすると、不当な扱いを受けたと思うのは当然かも知れません。でもこの主人は、契約違反をしたわけではないのです。約束通りの賃金を支払っていますから。1デナリオンは1日の生活に必要な賃金でしたから、長く働いた者たちは今日一日、ちゃんと食べられるぞという安堵の中で心地よい汗をかくことができました。でも、遅くまで雇われるのを待っていた人たちは、1日の糧を得られないのではないかと言う不安の中を待ち続けました。そういう気持ちを彼らは理解できませんでしたし、何よりもすべての者がその日一日をちゃんと生きられるようにと願う主人の心を理解できなかったのです。あなたがどれだけの業績をあげたか、それは神様の判断にはないのです。

4月24日(水)マタイ20章17節~28節
  十字架の予告の直後に、ヤコブとヨハネの母が、息子たちのためにいやらしい願い事をイエス様にしたことが記されています。子を思う母の願いがそうさせたのか、あるいは、ヤコブとヨハネが母親を使って願い出たのか、分かりません。イエス様は言われます。「 あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない 」(22節)。イエス様は、このような弟子たちのために予告通り、十字架におかかりになります。そして、「 父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです 」(ルカ23章34節)と祈られました。イエス様の十字架は、私たちが正しい願い求めに生きられるようにして下さるためではなかったか!!今日も十字架の上からイエス様は呼びかけられます。あなたは私に何を求めているか?と。

4月25日(木)マタイ20章29節~34節
  祈りは、「 主よ、わたしを憐れんでください 」と主に求めることです。難しいことではありません。しかし祈ろうとすると、それを妨げようとするいろいろな力が働きかけます。他のことが頭をよぎったり、この祈りは聞かれないのではないかと疑いが生じたり・・・そして集中できなくなります。横道にそらせようとするそれらの妨げを振り払って、声を出して行くときに、祈りは祈りになっていくのです。

4月26日(金)マタイ21章1節~11節
  イエス様がロバに乗ってエレサレムの都に入城されます。そのお姿は預言者の預言そのままでした(ゼカリヤ9章9節)人々は歓喜してイエス様を迎え、自分の服を道に敷き、木の枝を切って道に敷きました。彼らはイエス様こそ、ローマ軍を打ち破り、ユダヤの国を解放する救い主だと考えていました。そこには自分たちを罪から解放する救い主という理解はありませんでした。つまり、彼らは誤解した期待を持って救い主を迎えたのです。しかしイエス様はその誤解を正そうとはされず、誤解の中を進まれます。私たちは人から理解されることを求め、誤解されると激しく怒りますが、イエス様はその誤解をすべて引き受けるようにして、神の御心が成就するために人々の歓迎の中を進まれます。私たちの救い主理解も誤解の含まれた怪しいものでしかないのかも知れません。しかし主は、それを拒否なさいません。

4月27日(土)マタイ21章12節~17節
  両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒され、激しい態度で神殿のありようを批判されるイエス様。聖書は、私たちの人格も神の聖霊が宿る神殿であると言っています(Ⅰコリント3章16節以下)。私たちの神殿は、どのような状態になっているでしょうか。祈りの家が強盗の巣になってはいないでしょうか。礼拝で捧げるいけにえを売り、神殿税を納めるための両替と、外見はいかにも神様を礼拝するための便宜を図っているのですが、その心は神様を礼拝する心からほど遠く自分の利益のために神様を利用し、商売していたのです。内なる神殿を主に清めていただこう。

4月28日(日)マタイ21章18節~22節
  いちじくの木がかわいそうな気がしますが、ここでのいちじくは、当時の人々の信仰を象徴的に現しているのです。葉だけが茂っていて実はない。それは、形だけが整っていて、内実はまったくズレてしまっている(強盗の巣になってしまっている神殿礼拝に象徴されています)状況と同じです。そのような人々の信仰のありようをイエス様は指摘されたのです。「 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる 」(22節)との素敵な約束は、いちじくの木事件との関連で聞くべき言葉でしょう。つまり、私たちの求めは他の何ものでもない、何よりも「 信仰の実を結ばせてください 」という祈りになるだろうということです。信仰の実についてはガラテヤ5章22節~23節を参照しましょう。