2013年4月29日月曜日


先週の説教要旨 「 目を覚まして生きる 」 ルカ21章29節~38節

 東西冷戦時代と呼ばれる時代に「 世の終わり、終末 」という思想が世の中に流行ったことがある。作家の野坂昭如さんと東京神学大学の大木英夫先生がひとつの講演会で2人が同じ「 世の終わり 」というテーマで講演をしたことがある。野坂さんは小説家らしく、当時の時代状況をひしひしと感じているところから、人類はやがていろいろな面で行き詰まって破滅してしまうだろうと語った。それに対して大木先生は、人間の作り上げた技術とかがどうなろうと、人間が終わりを来たらせるのではない。神が来たらせるのだ。人間がどんなに愚かしいことをしたとしても、人間がこの世を終わらせることを神は許したまわない。それは神がなさること。そして、神が終わりを来たらせるとき、それは新しい始まりを意味すると語られた。 一般的な意味での終末は行き詰まり、破綻ととらえるが、聖書によると世の終わりは希望、そこから新しく始まるのである。

 その新しい始まりを迎えることができる者と、そうでない者とがいる。「 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない 」(32節、33節)。大地震が起きたり、方々で飢饉や疫病が蔓延したり、異常な現象が天地に起きる。国が国に敵対し、戦争が起こる。しかしそのようなことでこの世が滅んでしまうことはない。それはあくまでも予兆に過ぎない。なぜなら、終わりは神がご自身の手でもたらされるものだから。そのとき、天と地の間にある一切のものが滅びる。しかしただひとつ、滅びないで立ち続けるものがある。それが私の言葉であると主は言われる。主が「 わたしの言葉は決して滅びない 」と言ってくださるということは、その御言葉に耳を傾け、その御言葉にいのちを見出す者は滅びないということ。今ここに集まり、御言葉に聴いている私たちは、滅びないのだという約束である。私たちは生きたまま、世の終わりを迎えることになるのか、あるいは死んだあと、世の終わりを迎えることになるのか、それは分からない。しかしすべての者は世の終わりとと共に、神の御前に立ち裁きを受けることになる。そして新しい始まりに与る者とそうでない者とに分けられることになる。その決め手は御言葉に結びついているということ。

 その終わりのときがいつ来てもよいように、いつ来ても主の御前に立つことができるように備えているようにと主は言われる。「 放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい 」(34節~36節)。放縦、自分勝手気ままな思いに走ろうとする生活。泥酔、自分から感覚を鈍くさせようとすることだが、目の前の現実に向き合わないでいいようにすること。そして、そういう酔いたくなる思いの中に潜んでいるのが世の思い煩い。生活の煩いである。主の御前にたつことを忘れ、それらのことばかりに心が向いてしまわないようにしなさいと言うのである。私たちの周りには、心を鈍くさせることが一杯あるのだ。主の前に立つ・・・私たちは毎週、日曜日に礼拝に集う。礼拝に集うということは、主の御前に立つということである。私たちは毎週、毎週、主の御前に立つということを繰り返しながら、やがていつの日か、目に見える形で主の御前に立つときを迎える。その意味では、毎週の礼拝というのは、私は終わりの時に主の御前に立つ者なのだという意識を深めていくときである。

主の前に立つと言うことを真剣に考えよう。毎週の礼拝を重ねながら、主の前に立つということの意識を深めて行こう。主の御前に立つ時が来る。そのとき、自分の地上の歩みに関して一体、どんな申し開きが出来るのか・・・。主は、私たちの心に潜んでいた思いも皆、知っておられる。良いことも、悪いことも皆、主に裁かれれば、私たちはその報いをそのまま受けるよりほかはない。そんな私たちだけれども、主の前に立つ時を恋焦がれる。なぜなら、主の御前に立って、自分の歩みのすべてが主によって贖い取られる以外に私たちに望みはないから。主の御前に立つ。そして裁きを受ける。それは私たちにとって新しい始まりの第一歩なのである。決して、恐れるべきことではない。私たちの罪をはらんだ、欠け多き歩みのすべてが贖い取られるのだ。私たちは主の御前に立つことができるのである。ローマの信徒への手紙14章1節~4節で、パウロは信仰の弱い人たちを裁くなと、信仰が強いと思われている人たちに命じている。それは主がその信仰の弱い人たちをも立たせてくださるから。「 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです 」(4節)。どんなに弱い者であっても、イエス様が再び来られるのを待っている者である限り、必ず、主はその人を立たせてくださる。その人のうちに強い信仰があるからではない。たとえ信仰が弱かったとしても、主はそのような人を立たせることがおできになる。終わりの時にはその人を立たせてくださるのだ。 (2013年4月21日)