2013年4月16日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月8日~15日

 

4月8日(月)マタイ16章5節~12節

ファリサイ派とサドカイ派のパン種によく注意しなさい(6節)との主の言葉を弟子たちはパンを持ち合わせていなかったことを注意されたと誤解しました。両派はあまりの仲が良くないのですが、イエス様への殺意において一致していました(マルコ3章6節参照)。彼らの教えの特質は、イエス様をなきものとして生きようとすることです。まるで神がおられないかのように生きる。人は神なしで生きようとすれば、自分の努力、自分の力を頼みとする以外にはなくなり、一生懸命、自分に力を蓄えて、何かを獲得しようとする生き方にならざるを得なくなります。しかし信仰者の道は、自分の力を頼みとするのではなく、実力不足という現実(パンの奇跡が示すこと)を越えて前進させてくださる「主」が共におられ、その主に頼ることなのです。世の中はファリサイ人たちの原理によって突き動かされていますね。

 

4月9日(火)マタイ16章13節~20節

あなたがたはわたしを何者だと言うのか 」とイエス様に聞かれ、ペトロは「 あなたはメシア、生ける神の子です 」と答えました。その信仰告白の上に、イエス様はご自身の教会を建てると宣言されました。ですからその告白がぶれるとき、教会は教会でなくなってしまうのです。メシアである主以外のものが私の拠り所とならないよう、私たちは戦いつつ歩みます。ヒットラーと戦った告白教会のように。

 

4月10日(水)マタイ16章21節~28節

必ず 」(21節)というのは、父なる神の強い意志の現れで、イエス様を十字架につけることを強く欲しておられるということです。イエス様も自ら十字架へと向かう決意を言い表されています。しかしその強い意志が現されたとき、ペトロはそこから手を引かせようと主の前に立ちはだかりましたそのペトロを主は「 サタン、引き下がれ 」と叱責されましたが、「 引き下がれ 」は、ギリシャ語では「 私の後ろに行け 」となっています。どこか遠くへ行ってしまえというのではなく、私の後ろにつきなさい、私の背中を見つめて歩みなさいというのです。そこでこそあなたは真に命を得るのだと。25節~26節の「 失う 」、「 得る 」は羊のたとえの「 見失う 」と「 見つけ出す 」と同じ言葉です。イエス様の邪魔をして自己主張し始めると、私たちは迷子の羊のようであり、真の命を失っているのです。主の背中には私たちのための打ち傷が見えます。私たちはそこから感化を受けるのです。

 

4月11日(木)マタイ17章1節~13節

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった 」(2節)。山上の変貌と呼ばれるこの出来事は、イエス様の十字架と復活が旧約聖書の預言に合致するものであることを示す出来事だと理解されています。エリヤとモーセは旧約聖書を象徴する人物として登場しています。変貌されたイエス様のお姿は、受肉前の栄光のお姿であり、復活後の栄光の姿を表しています。しかし今、地上の歩みをされているイエス様の衣はひどく汚れていました。それは私たちの罪の汚れによるものと言ってもいいでしょう。栄光なるお方が私たちの生活のただ中に来られ、私たちの汚れをその身に負うてくださったのです。主は今日もあなたの罪をご自分の衣でそっと拭い、その衣を汚してくださいます。

 

4月12日(金)マタイ17章14節~20節

ペトロたち3人を除く(1節)残りの弟子たちは、彼らが不在の間にてんかんで苦しむ息子を癒してほしいと懇願されました。特別扱いを受けた3人だけでなく、俺たちだって・・・と気負ったことでしょう。彼らはイエス様が悪霊を追い出す振る舞いをつぶさに見て来ましたから、自分たちだってやればできると思いました。しかしできませんでした。弟子たちはイエス様のように振舞うことではなく、イエス様の元に連れて行くことが自分たちの務めであることを忘れていました。からし種一粒の信仰とは、あの方のもとにさえ連れて行けば・・・という信仰のことです。あなたが今抱えている問題も、どうぞ、イエス様のもとへ持って行ってください。

 

4月13日(土)マタイ17章22節~23節

イエス様の十字架と復活の二度目の予告を耳にして、弟子たちは非常に悲しみました(23節)。しかしこの悲しみの意味は、まったく的外れなものでした。16章でペトロがイエス様をいさめたように、救い主は圧倒的強さでローマを打ち破り、ユダヤを解放してくれるものだと彼らは期待していましたから、このような発言を繰り返されるイエス様にひどく悲しみを覚えたのです。でも本当に悲しむべきは、イエス様を十字架へと追いやってしまった私たちの罪ですよね。世の悲しみではなく、御心に適った悲しみがあるのです(Ⅱコリント7章10節)。人は悲しみがないことを求めますが、信仰者には深めて行かなければならない悲しみがあるのです。

 

4月14日(日)マタイ17章24節~27節

地上の王は自分の子どもたちからは税金を取らないだろう。ならば、神殿の王であられる父は、御子である私から税金を取ろうとなさるまい、それがイエス様の主張でした。ペトロは16章16節で素晴らしい信仰告白をしていたのですが、告白したこととやっていることがちぐはぐですね。まるで自分を見ているようです。信じていることが、そのまま形となって現れてくるような、そういう信仰生活を祈り求めて行きましょう。イエス様の対応はユーモアがあり、その中でペトロは「 ああ、そういうことか 」と、信仰と生活を結びつけて行くことを学んだことでしょう。