2013年4月16日火曜日


先週の説教要旨 「あなたがたに平和があるように」 ヨハネ20章19節~29節

ディディモと呼ばれるトマス。双子と言う意味であるが、福音書を見る限り、双子の片方の兄弟は登場しない。そこから双子というのは信仰的な意味での双子、つまり復活の主を信じたいという思いと疑ってしまう思い、相反する2つのイエス様に対する思いが同居している。その意味で双子なのだと言われることがある。他の弟子たちが復活の主に会ったと喜んでいる中、トマスだけはその喜びの輪の中に飛び込んで行くことができないでいた。トマスは自分の気持ちに対して大変正直な人間で、自分の考えをしっかりと持っていた。それだけに自分で納得できるようになるまでは信じないと考えていたのだ。ヨハネ11章16節を見ると、トマスはイエス様と一緒であれば、どこへでも行くという心意気に満ちた人と分かる。とことんイエス様に傾倒し、主に従うことに本当に一途な思いを持っていた。だからひとたび、信じると決心すれば、一途に信じて歩んで行こうとする心づもりは人一倍、強く持っていたと思われる。仲間の弟子たちは、一途なトマスに何としても復活の主と出会う喜びを知って欲しいと願っていた。トマス本人もそういう仲間の気持ちは痛いほど理解していた。しかし自分に嘘をついてまで信じるとは言えなかった。「 あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければわたしは決して信じない 」と仲間に言った。トマスは自分の手で感じる確かさを信じていた。だが、トマスには恐れの心もあったのだ。そのために信じることができなかったのである。なぜなら、主の復活を信じるということは、私たちの目に見えることには、もはや信頼を置かないということなのであり、自分の手で感じる確かさ、目で見る確かさを手放し、もっと確かなものがあると信じることなのである。今まで支えとしてきたものを手放すわけだから、最初は恐れを呼び起こす。だがその呼び起こされる恐れを突き抜けたところにある平安、平和へと達すること、それが信仰なのである。

 復活の主は、そんなトマスを放っておけない。8日たった週の初めの日、トマスが他の弟子たちと一緒に鍵のかかった部屋にいるとき、主はそこを訪ね、「あなたがたに平和があるように」と祝福の言葉を語られると、すぐにトマスに言われた。「 あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい と。あたかも主は、弟子たちの中で一番疑いの深い、一番信じることのできなかったトマスを目指してお出でになって、そう言われたかのようである。このことは、信仰の弱い私たちにとって大きな慰めである。復活の主は、一番自分は信仰がダメだと思っているその人を目指してお出でになって、その人を信じることへと導かれるのだ。この時、弟子たちは部屋の戸を閉めて、鍵をかけていた。だがそのような妨げを突き抜けて主はそこに入って来られた。同様に、私たちどんなに固く心を閉ざしていても、どんなに自分自身の魂に鎧を身につけていたとしても、主は固く閉ざした壁を突き抜けて、あなたのところへ入って来られる。私たちを信仰に導こうとされる主を妨げる障壁などこの世に存在しない。イエス様は「 あなたの指をここに当て、あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい 」と言われた。自分が痛い思いをしようが、屈辱を受けようが、疑われようが、主の願いはただひとつ、トマスが信じる者になってほしいということ。

 トマスは、主の体に触れることはなかったであろう。トマスは自分の手、自分の目の確かさよりも、今目の前に立つ主の愛のほうがはるかに確かであることを悟ったから。自分を信仰に導こうとされているこの方の熱意、愛の方が自分の手や目で感じる確かさよりも、はるかに確かであると悟ったのである。トマスは「 わが主よ」わが神よ 」と言って主の御前にひれ伏した。トマスがこの信仰告白に込めて思いは、自分の不信仰をイエス様の御前に恥じると共に、しかしこのお方は、私が信じますと信仰を言い表せば、その信仰さえも助けてくださるに違いないという思いであった。信じ切れない、疑いを持ってしまう、そういう自分の弱さもすべて、このお方に委ねる思いで信仰を告白したのである。トマスの「 わたしの主よ、わたしの神よ 」という告白の言葉は、後の教会の歴史においてイエス様に対する大切な信仰告白の言葉として受け継がれるようになった。一番信仰が弱かった思われるトマスが、豊かに用いられたのである。私たちにとっても、大きな慰め、励ましである。

私の仲間の牧師が、赴任先の教会で幼い子を残して召された若い女性の葬儀を経験した。彼女の愛唱讃美歌「 主のまことはくしきかな 迷い悩むこの身を とこしなえに変わらざる 父のもとに導く 大いなるは主のまことぞ 朝に夕にたえせず みめぐみもて支えたもう たたえまつらん わが主を 」を葬儀、前夜の祈りと何度も歌った。しかしこの歌に納得できなかったと言う。どこに主のまことを見出せるのかと。しかし葬儀が終わって後に、その牧師は分かったと言う。あの葬儀のとき、本当にそれを歌う気分が自分にあるかどうか、それが大切なのではなく、悲しみが最も深いあの日にこそ、主のまことを歌うべきだったのだ。自分の心に逆らってでも、主のまことを歌うべきだったと。自分の感情の確かさにではなく、主の愛の確かさに立つとき、主の平和が私たちを包み込む。 (2013年3月31日)