2013年4月16日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月1日~7日

 

4月1日(月)マタイ14章22節~33節

イエス様は、弟子たちを「 強いて 」舟に乗せられました(22節)。イエス様の「 強制 」には、いつも明確な目的があります。ペトロは自分が信仰の薄い者であることを悟らされましたが、それ以上に彼が学んだことは、叱られてしまうような自分がイエス様の肩を借りるようにして「 嵐の中 」を舟まで歩いて戻れたこと(32節 )、そしてイエス様が惨めな自分と共に「 嵐の中 」を歩いてくださったということでしょう。ペトロのイエス様理解は、そこで一歩前進しています。ペトロにその恵みが起こるようにと、イエス様は離れた所でペトロのために祈っておられました(23節)。嵐の中に置かれてしまうことは辛いことですが、嵐の中でも歩めるようにしていただけることを知る素晴らしい幸いというものがあります。

 

4月2日(火)マタイ14章34節~36節

人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた 」(35節、36節)。お地蔵さんに触れると、病気が治るという、よく耳にするようなことが聖書にも書かれています。イエス様のことをよく知らないままに、とにかく触れば病気を治してもらえるというのは不十分な信仰でしょう。しかしそんな不十分な信仰にもイエス様は応えられたというのです。長年同じところを触られまくったイエス像のその部分が溶けたように小さくまるまっているのを見たことがあります。イエス様は人々の病気を癒す一方で、それと引き換えにご自分の身を削られるために差し出される方なのです。

 

4月3日(水)マタイ15章1節~20節

ファリサイ人たちは、神様の前に聖なる生活を送ろうと一生懸命努めた人たちです。聖なる生活を大事にしようとの志は、私たちも学ぶべき点があります。しかし、自分の存在に深く根付いている罪の現実を悟るという点では、大きな誤りを犯していました。自分の力で神様の前に聖なる者として立てると思っていたのです。私たち人間にとって、自分の罪を悟るということがどんなに難しいことか、思わずにおれません。私たちは自分の罪を悟ることに鈍いくせに、他者の罪には敏感で、すぐにそれ批判するようなファリサイ的な生き方にすぐに陥ります。信仰の真髄は「 主よ、憐れみたまえ 」という祈りがいつも口をついて出てしまうような自己洞察の中にこそ、あるのです。食前の手洗い以上に、心が洗われることを願う熱意を!!

 

4月4日(木)マタイ15章21節~28節

カナンの女に対するイエス様の言葉は冷たすぎるのでしょうか(24節)。神様は万民の救いについて、一つの順序を定められました。そのことに関して、私たちは何も不平を言うことはできません。そのまま謙遜に受け入れるだけです。カナンの女はそのような慎ましい信仰を持っています。私は、本来なら神様の恵みをいただけるような者ではないという謙遜な姿勢があります(27節)。しかし、異邦人の地であるここに今、主が来られているということは、まさにパン屑が食卓から落ちたと言うことではないでしょうか?と、食い下がります。「 主の憐れみはどこまでも深く、広いものだ 」と信じて食い下がる姿は、主の憐れみを引き出しました。「 主の恵みと憐れみの大きさに対する徹底した信頼 」を私たちも真似ましょう。

 

4月5日(金)マタイ15章29節~31節

病気の人たち、そして体の不自由な人たちが大勢癒されたことが記されています。この人たちの喜びの賛美が群集の賛美(31節)に混じって聞こえてくるようです。でも、この人たちがその後、再び病気になってしまったら、それでも賛美を歌い続けているのでしょうか?癒しの恵みに与ることは素晴らしいことですが、その恵みに与る中で、気づくべきことがあります。それは、最大の恵みというものがあり、それは「 主があなたと共におられる 」ということ。その恵みはいかなる状況によっても取り去られないのだということ。たとえ再び病気になったとしても・・・。

 

4月6日(土)マタイ15章32節~39節

主は弟子たちを呼び寄せて、群衆に食べ物を与えようと言われました。群衆のために恵みの御業を行おうと弟子たちに呼びかけられたのです。弟子たちは、その業を共に担うよう呼び込まれましたが、環境の悪さ、自分たちの手に負えないほどの人数、それらを理由に無理だと判断しています(33節)。主が恵みを行われるのに環境の悪さや手数の不足、あるいは手遅れなどということは問題になりません。私たちはしばしばそれらの事を理由にあきらめて、自分で勝手に判断して主に期待することをやめてしまいますが、それでいいのですか?と問われています。

 

4月7日(日)マタイ16章1節~4節

ファリサイ派とサドカイ派の人々は、イエス様に「 天からのしるし 」を見せてほしいと願いました。神様から遣わされたという「 しるし 」を求めたのです。彼らは自分たちの納得できるような神の支配のしるしを要求していたのです。考えさせられることだと思います。私たちも、ほんの小さな不幸においても神の支配が見えなくなります。神様は生きておられるのか?と疑い始めます。そして自分の納得できる「 しるし 」を見せてくださいと要求します。しかし信仰というのは、神の存在やその支配を打ち消すような目に見える現実が起きたとしても、なおそれに逆らうようにして「 神様は生きておられる 」と信じて行くことなのです。自身の感覚にではなく、聖書の約束の言葉に、軸足を置いた信仰生活をしましょう。