2013年2月24日日曜日

2013年2月24日 説教要旨


「 低きに下る権威 」   ルカ20章1節~8節

ここでの主題は権威である。「権威」と言う言葉に、私たちはあまり良いイメージを持っていないと思う。上の者が下の者を力ずくで言うことを聞かせる、喜びよりも苦しみを与えるもの。そういう悪いイメージが結びついている言葉だ。今朝の箇所でも、悪いイメージの権威が登場してくる。イエス様が神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たち、民の長老が近づいて来て、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と言ったのである。「このようなこと」というのは、イエス様が神殿の境内で信仰について民衆に教えておられたことや神殿の境内で商売をしていた人たちを追い出したことを指す。祭司長や律法学者たちは、「神殿における権威は、この我々が持っているのだぞ。その我々の許可もないのにこんなことをして一体どういうつもりだ」と激したのである。彼らにとって神殿は自分たちの世界だった。自分たちこそが権威者で自分たちの思い通りに支配することができる世界、それが神殿。そういう世界を突き崩そうとする者を絶対に認めるわけにはいかないと彼らは考えていた。

祭司長や律法学者たちは、私たちとは全く異なる人間なのかと言うと、そうではない。私たちも彼らのように、自分が権威者となって支配することができる領域、世界を作って、それを一生懸命確保しようとしているところがあるのではないか。家庭や職場で「この家では皆、私の意見を重んじてくれなければいけない。私の思いに反することを言ったり、やったりするのを私は許さない」、そうやって権威者になっている。そこにイエス様が来られて、「あなたには権威はないのだ。その権威は私が持っているのだ」と主張され始めるとき、まことに迷惑なことだと思ってしまう。でも本当はイエス様があなたの家庭、あなたの職場、あなたの人生を支配される権威をお持ちの方なのである。本来、権威というものは善いものなのである。「権威」と訳される言葉はエクスーシア、エクス・・何々の外に、ウシア・・存在するという言葉から出来ている。存在の外にある。つまり、そこに存在する人、物、それら束縛されないで自由に行動することができる力を意味する。そこから転じて、自分だけでなくて、相手も同じように自由にしてあげる力をも意味するようになった。本来、権威は相手を縛り付けるのではなく、相手を解き放つ、自由にしてあげる力なのであり、善いものなのである。「イエス様が私たちの権威者だ」と言うのは、私たちを縛り付けている色々なもの、絶対にこうでないといけないという自分の思い込みだとか、価値観だとか、そういうものから私たちを解放して、自由に生きられるようにしてくださるということ。私たちはイエス様の権威を認めて受け入れ、その権威にひざをかがめるとき、解き放たれた自由に生きることができるようになるのである。そのように、正しく用いられている権威に服することは、私たちに平安をもたらす。たとえば、私たちが病気になったとき、「あの先生はこの病気の権威だからね」などと言われている先生に手術をしていただけるとなると、その権威のもとで安心して手術を受けられるようになるだろう。手術を受ける前からもう大丈夫だと安心して身を委ねることができる。そして権威を信頼して身を委ねるとき、そこには平安が生まれるのである。同様に、イエス様は私たちの魂の医者として、私たちの病んだ魂を癒してくださる。束縛されて病んでしまっているあなたの魂を解き放つ。今、あなたを束縛しているものは何か。先行きの不安か。それとも健康か。それを自分の力で何とか解決しようとギューッと握り締めていると、反対にあなたがその問題に握り締められてしまって身動きがとれなくなる。イエス様に委ねるのだ。「あなたこそ、私の人生の権威者、支配されるべきお方、どうぞあなたの御心のままに・・・」と言ってイエス様の権威に身を委ねるのだ。そのとき、あなたに平安が訪れるのだ。

 律法学者たちは、イエス様の権威を認めようとしなかった。「洗礼者ヨハネは、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」との問いに答えなかったというのは、イエス様の権威を絶対に認めまいとする心の現われだ。「なるほど、イエス様を認めて受け入れるということは、まことに幸いなことであろう。しかしだからと言って、今の自分のこの生き方を変えようとは思わない。自分の人生の主権者はこの私だ。神様ではない。自分はこの生き方のままで行く。今の生き方を変えないままで神様が私を救ってくれるというのだったら救われてもいい」という態度を私たちは取ってしまう。自分自身が権威を保持しようとすることをやめて、イエス様の権威を認め、それにひざをかがめる決意を新しくしよう。イエス様の権威は、私たちにひざをかがめさせるものであると同時に、ひざまずく私たちを立たせてくださるものでもある。私たちよりももっと低いところに下って、そこから私たちを支え、立ち上がらせてくれる。イエス様の権威とはそういう権威である。24歳で召されたあの青年の生涯はその権威に支えられて生き抜いた慰め深い証である。