2013年3月3日日曜日

聖書日課 3月4日〜3月10日


成瀬教会 <聖書日課>  3月4日~3月10日

3月4日(月)マタイ10章1節~4節
「 十二使徒の名は次のとおりである 」と言って、まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ・・・それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである、と使徒たちの名前が伝えられています。12人の使徒たちは教会の核になる人たち。その中に裏切るものが含まれていた・・・つまり、教会はその最初から痛みを内包していたというのです。教会は痛みを抱きつつ、うめき、苦しみながら形成・成長させられていく集まりなのです。何の問題もないスムーズな環境で成長するものではありません。真珠貝が痛みの涙によって真珠を形成するように、教会も痛みのうちに成長します。そしてそういう群れを主は宣教の器としてお用いになるのです。

3月5日(火)マタイ10章5節~15節
 同胞ユダヤ人のところへ伝道のために遣わされる弟子たち。自分たちのことがよく知られているところへ出て行くのです。伝道の証は特別な行為ではありません。苦しいと言ってはうめき、悲しいと言っては泣き、自分の弱さに何度もつまずきながら、神様に寄りすがって生きて行く、そのような生活の姿そのものが証なのです。それは必ずしもカッコいいものではありません。でもそれでいいのです。証は、自分の所有している何かを見せることではなく、弱い罪人に過ぎない私たちがなお支えられて立っている、その根拠を紹介することなのです。

3月6日(水)マタイ10章16節~25節
「 わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ 」(16節)。羊は無力です。闘うための牙を持たず、敵から逃れる術もありません。そういう羊として、私たちは狼の待つこの世に遣わされるのです。狼は牙を持っており、羊を傷つけることができます。しかし羊は羊であり続けなければなりません。羊が狼のようにこの世の強さを身につけようとしてはならないのです。羊の強さは羊になり切る強さ、言い換えると羊飼いの強さによってだけ闘う強さです。この世の強さに競合しようとするとき、教会はかえって伝道の力を失うのです。

3月7日(木)マタイ10章26節~31節
「 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい 」(28節)。神様への恐れを奨めるイエス様の言葉は、その前と後に「 恐れるな 」という言葉が3回繰り返されます(26節、28節、31節 )。その中で、神様への恐れが語られるのです。これは、神様を恐れることを知っている人間は、神様以外のものは、何も恐れることはなくなることを意味しています。反対に神様を恐れることを知らない人間は、何も怖がっていないかと言うとそうではなく、実に様々なことを恐れて生きています。もし私たちが何かに対して恐れや不安を抱いてビクビク生きているならば、それは神様を恐れることをまだ知らないからなのです。神様を恐れることは知識の初めです。

3月8日(金)マタイ10章32節~39節
未信者の家族を持つ者にとっては、とりわけ厳しい言葉が聞こえてきます。「 わたしを愛するのか、それとも家族との生活を愛するのか 」と。主の言葉を真剣に聞く時、そこには痛みが生じ、生身を引き裂かれるような思いが生まれます。主は、神様が第一とされるところに真の平和があると言われます。主を中心にお迎えすることにおいて、家族もまた真の家族と成っていくのです。真の家族となるために、先に救われた者が、生身を引き裂かれるような思いの中で祈り続けることがあります。しかし、その祈りの中で深く知らされることは、主の投げ込んだ剣は私たちに向けられたものではなく、主ご自身に向けられていたものだったと言うことです。主を第一としていない私たちの罪を、ご自身が代わって引き受け、十字架におかかりになられたのですから・・・・。厳しい言葉の中にも恵みが響いていますよ。

3月9日(土)マタイ10章40節~11章1節
私たちを受け入れる者は、主を受け入れることなのだ(40節)と言われています。「 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける 」(42節)。畏れ多い言葉です。主の弟子である私たちに対する接した方でもって、その人の永遠の定めが決まってしまう。「取り扱い注意」の札が付けられているようなものです。私たちはそれほどに大きな値打ちを持っているのです。主に救われていることの重みを感謝をもって、よくわきまえなければなりません。私たちはその恵みの大きさに生き、そこから生まれる言葉をもって、神の恵みを告げる者でありたいと思います。

3月10日(日)マタイ11章2節~19節
獄中のヨハネは、主が来るべき方であるかどうか確信がなくなり、迷っています。彼は主を指して、靴のひもを解く値打ちさえ私にはないと言った人物です。主を指し示すことに自分の全存在を賭けてきた人です。その人が今、主のゆえに牢獄にとらえられた時、イエス様がメシアであるかどうか分からなくなってしまったと言うのです。メシアが来られたのに、なぜ世は変わらないのか。なぜ自分は投獄されたままなのか。すでに始まっているメシアの支配が信じられないのです。ヨハネのしていた戦いは、私たちの戦いでもあります。一方で主の支配を信じつつ、もう一方では「なぜ、こんな事が!!」というとことが起こるのです。それでもなお、主につまずかない者は幸いだとイエス様は言われます。「にもかかわらず」の信仰です。