2013年2月24日日曜日

聖書日課 2月25日〜3月3日


成瀬教会 <聖書日課>  2月25日~3月3日

2月25日(月)マタイ9章9節~13節
徴税人をしていたマタイは、イエス様に「 わたしに従いなさい 」と言われて、すぐに従いました。心の奥底まで視通すイエス様のまなざし(9節)にとらえられたのでしょうか。見える方には見えるのです。「 マタイが今生きている場所が、本当に彼の生きる場所であるのかどうか、間違ったところに生きているのか。童話『醜いあひるの子』は、生きる場所を間違えていたという物語です。もっと大きな命に生きるようにされていたのに、白鳥の子がアヒルの世界に生きようとしていた。あなたは今、本当に生きるべき場所に生きていますか。神の子として生きていますか。

2月26日(火)マタイ9章14節~17節
 「 新しいもの 」と「 古いもの 」とを混ぜるなとイエス様が言われます。ここで言う「 新しさ 」とは、婚礼の祝いに象徴される「 喜び 」です。「 古さ 」と断食に象徴される悲しみです。人々は断食して罪を悲しんだのです。しかしイエス様は、「 わたしがここに来たことによって、新しい時代が到来した。悲しんでではなく、喜んで生きられる時代があなたがたのところにやって来たのだ」と言われます。その喜びとは、「 主が共におられる 」ところに生まれる「 喜び 」です。信仰者はどんなに悲しい出来事の中にあっても、その一番深いところでは喜んで生きています。主が共にいてくださるから・・・。そして自分は婚礼の席にいるのだと知っている者は、耐えるべきことを耐えることができます。

2月27日(水)マタイ9章18節~26節(Ⅰ)
12年間も病のために出血が続いている女性は、後ろから主の服の房に触れました。堂々と主の前に進み出て、癒してくださいと願うことができない事情があったのでしょう。でもそんな彼女に主は「 あなたの信仰があなたを救った 」と言われたのです。主が認められた彼女の信仰とは、一体何なのでしょうか。それは、自分の苦しみの全てをその指先に込めて、直接イエス様に触れさせて行った姿勢のこと、それをイエス様は彼女の信仰として認め、受け入れて下さったのです。あなたはこのような姿勢をイエス様に対して抱いていますか。あなたの苦しみをイエス様に触れさせていくような祈りをしていいのですよ。

2月28日(木)マタイ9章18節~26節(Ⅱ)
ある指導者の娘が死に、父である彼は主のもとにやって来ました。主が来て下されば生き返ると信じていたのです。主はすぐさま彼の願いを聞き、彼の家に向かいましたが途中で横入りがあって、中断してしまいます。主がすでに動かれているのだけれども、待たなくてはならない時があります。その時、私たちはもう手遅れだと、あざ笑う人々(24節)の仲間になってしまうのでしょうか。そのような人々は外に出され、主の恵みの御業を体験することが許されませんでした。私たちは、最後まで、主のなさり方に信頼し、主の恵みの御業を体験する者でありたいと思います。この指導者は中断してもあきらめずに、主と共に家まで来たのです。

3月1日(金)マタイ9章27節~31節
「 タビデの子よ、私たちを憐れんでください 」(27節)と2人の盲人は主に叫んで、ついて来ました。主が家の中に入っても、ついて行きました(28節)。主の憐れみを得ようと食い下がる2人の盲人。私たちは、この盲人のように「 主よ、わたしたちを憐れんでください 」と叫ぶほどの信仰に生きているでしょうか。私たちは、自らの罪の深さ、愛の不能者である自分の姿に愕然として、ただただ主の憐れみにすがるしかないと言う思いに至ることがあるでしょうか。自分は主の憐れみがなくても、人並みのことはきちんとやっていけると、どこかで思っていないでしょうか。あなたは「 憐れんでください 」という叫びに、乞食のようだと抵抗を感じるでしょうか。いいえ、真に人間として生きようと願う誇り高き姿を感じます。

3月2日(土)マタイ9章32節~34節
悪霊に取りつかれて口の利けない人が登場しています(32節)。それって、誰のことでしょうか。そういう人を私は今まで見たことがないし、現代でもそういう人はいるの、と言うかも知れません。でも、相手の心に届く言葉、相手を励まし、慰め、建て上げる言葉をあなたは語れていますか。相手をおとしめる言葉なら、いくらでも語れるかも知れません。でもそれでは本当に口が利けるとは言えないのではないでしょうか。私たちは、主の愛の力に触れられて「 ものを言い始め 」る( 33節 )者でありたいですね。主の愛に根差した言葉を語れるように・・・。

3月3日(日)マタイ9章35節~38節
イエス様は「 群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた 」(36節)。今の日本人をあなたはどのように見ていますか。かつてはこれほど豊かに物があふれる時代が来るとは想像がつかなかったことでしょう。欲しい情報が何でもインターネットですぐに手に入れられる便利な時代が来ることも想像できなかったことでしょう。皆、表面的には不自由していないように思えます。しかしそういう表面の姿に隠れて、人々の内面はますます飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれています。キリスト者の便利屋さんが1人暮らしのある老人と食事を共にし、話を聞き、一日共にいたら、その謝礼として100万円を差し出されたということがありました。この人には福音は必要ないわ・・・そう思うのは誤解です。皆、本当は必要としているのです。心の奥底で。