2013年1月6日日曜日

2013年1月6日 説教要旨


「 神様と出会う 」 コヘレトの言葉12章1節~14節

 日本人の平均寿命は世界でトップである。これは一面喜ばしいことだか、半面、高齢化社会をどう生きたらいいのか、という戸惑いも与えている。日本には、高齢化社会をどう生きたらいいのか、そのモデルがないから。なぜなら、高齢化社会というのは世界の歴史においても、今までに例がないから。高齢化社会はここ数10年の間に、急速な医療技術の進歩と経済の発展によって、もたらされたものだからである。高齢化社会をどう生きたらいいのか、その問題を一層、難しくしているのは、私たちが歩んできた高度経済成長期に日本社会に植えつけられた価値観である。高い能力を身につけ、それによって効果をあげ、評価されるという、言わば『能力主義』の価値観は、体力や記憶力などが衰えてしまった高齢の人たちを、もはや自分は生きる価値を失ったのだと、生きる意味を見出せないように縛ってしまっている。この問題の解決の鍵は、高度経済成長期を支えてきた価値観に代わる、全く『別の価値観』を私たちが持つことができるか、ということであろう。これは、日本社会全体の課題であり、ここにいる私たちひとりひとりの課題である。そのことを踏まえ、成瀬教会は2013年の主題聖句をコヘレトの言葉第12章1節とした。

 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」(1節)。「青春の日々にこそ」と言われているが、新共同訳聖書は、極めて残念な翻訳になってしまったと思う。他の日本語訳聖書は、「あなたの若い日に」と、原文ヘブライ語に忠実に訳している。「青春の日々」と訳してしまうと、10代、20代のうちに、ということになってしまう。だが、「あなたの若い日」と言うのであれば、いくら年を重ねても、今年のあなたは来年のあなたよりも若いと言えるし、今日のあなたは、明日のあなたよりも若いと言うことができる。つまり、「あなたの若い日に」という言葉は、「今」という機会を逃してはならない、という意味が込められていると理解することができるのである。おそらくコヘレトの言葉が強調したいのはその点であろう。「あなたの若い日に、お前の創造主に心を留めよ」。これは、創造主なる神様を心に留めることができる機会を逃すなと、若者だけでなく、高齢の人たちにも含む、すべての人たちに向けて語られている言葉なのである。

コヘレトの言葉はこの12章において、人間の「老いと死」について語る。それは、あたかも私たちの前に、めいめいの姿を映し出す鏡を立てかけるようなことである。その鏡には、これから私たちがどのようになって行くかを映し出されている。その鏡の中をのぞくことは、真に厳しい思いがする。だから、コヘレトはそれをあからさまに語ることをしないで、婉曲に(えんきょく)に描写する。コヘレトの思いやりなのだろう。3節から7節は、私たちの体の各器官、腕や手、足腰、歯、耳、目、声の衰えていく様子や、階段や坂を怖れるになることを語っている。3節から7節をそういう目で読み直してみると、比喩の内容が理解できるはずだ。それほど難しくはない。そういう厳しい現実を描写しながら、コヘレトの言葉は、そういう日が来ないうちにあなたの創造主を心に留めよと呼びかける(1節)。あなたの若い日、「今」という機会を生かして、造り主を覚えなさい。体の各器官が衰える、その日が来る前に、体のすべてを生かして、あなたの創造主を心に留めなさい、造り主と日々、出会うということを大切にしなさいと・・・。歯が抜け落ちないうちに神が与えてくださる食べ物を感謝して食べなさい。神が祝福をもって作られた世界を、祈りの目をもってしかと見よ。声があるうちに神を讃美しなさい。目の機能があるうちに聖書を読みなさい。歩けるうちに信仰者の集いに集いなさいと・・・。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」(1節)。年を重ねることに喜びはないと、多くの日本の高齢者の方々が思っているだろう。それは誰もが感じる確かな現実である。そして、その思いに対抗するには、お前の創造主を覚える喜びを知るしかないのだと、コヘレトの言葉は語る。神様と出会う喜びを知る以外にはないと。これは永遠の視点に立つ新しい価値観だ。ベテスダ奉仕女と呼ばれる人たちは、その生涯を奉仕に捧げ、年を取り引退すると、1ヶ所に集まって暮らす。その生活の日々を彼女たちは、「婚礼前夜」と呼ぶ。奉仕から離れた悲しみではなく、神様と顔と顔とを合わせてお会いするその時が近づいているという「期待」に胸を膨らませて過ごすのだ。老齢期は、神様と顔と顔とを合わせてお会いするという私たちの人生の究極のゴールに向けて、その期待を膨らませて過ごす時だ。その期待は、日々、聖書を通してまだ目で見ることが出来ない神様と出会う経験を重ねて行くことで、高められて行く。今年、私たちの教会は聖書日課を発行する。神様と日々出会う経験の一助となることを願って・・・。年を取り、何も分からなくなると、自分ではもう神様を覚えることすらできなくなってしまうことを恐れるかも知れない。だが、いなくなった放蕩息子を毎日覚え、彼の姿をとらえようと来る日も来る日も、遠く眺めていたあの父親のように、神様はご自分の方で私たちのことを覚えていてくださる方だ。だから安心していい。