2013年1月13日日曜日

聖書日課 1月14日〜20日


成瀬教会 <聖書日課>  1月14日~20日

1月14日(月)マタイ4章12節~17節
 「 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた 」(12節)。ヨハネを捕らえたのは残忍な王ヘロデです。イエス様はヘロデを逃れて、ガリラヤに行ったかのような印象を与えますが、そうではありません。ガリラヤはそのヘロデが支配する地方だったのです。しかもガリラヤはイスラエル領土の最北に位置し(ゼブルン族とナフタリ族の領地)、戦争になると北からの攻撃者たちの手にいつも最初に落ちるという定めを負っていました。そのガリラヤに行かれたということの中に、より貧しいところ、より悲しいところ、より深く涙のあふれているところに行こうとされるイエス様の心を読み取ることができます。寒さが厳しくなればなるほど大地が美しい真っ白な霜柱を咲かせるのに似て、この地上の醜さ、悲しさ、不幸が深まれば深まるほど、より深い憐れみがイエス様からあふれてくるのです。

1月15日(火)マタイ4章18節~22節
 イエス様に「 わたしについて来なさい 」 (19節)と、声をかけられた弟子たちは、すぐにイエス様に従いました(20節)。これは彼らの「 従いっぷり 」の良さを示している言葉ではなく、従うための何の準備も求められることなく、イエス様にグイッと引っ張られたことを意味しているのだと思います。私たちがイエス様に従うときも同じことが起きているのです。従うための何の準備もない私たちをイエス様が捕らえるという主の御業が先行しているのです。あなたが何かの奉仕や責任を担った経験があるならば、このことはとてもよく分かると思います。

1月16日(水)マタイ4章23節~25節
 ここに描かれている病気や苦しみに悩む者たちは、毎日の生活の中で汲々としていたと思います。自分の生活のことにあくせくしながら、現実に埋もれていく生活だったことでしょう。イエス様のために何か奉仕をするというような信仰の生活とはほど遠い生活をしていると、本人たちは感じていたかも知れません。しかし、そのような人々のところをイエス様の方から近寄って下さり、人々の間を訪ね歩いて御業を行なってくださいました。意識のない母を看病する8年間の生活に、何の意味も見出せず、悩み、苦しんでいたあるご婦人は、その生活をもイエス様は見ていてくださると知り、深い慰めを得たのでした。そしてそのような慰めを受けたとき、人々はイエス様に従ったのです(25節)。自分なりの精一杯のやり方で。

1月17日(木)マタイ5章1節~3節
 「 心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである 」という御言葉は、徴税人ザアカイ( ルカ19章 )や罪深い女の物語( ルカ7章 )と合わせて読むと、意味がよく分かると思います。あるいはルカ18章9節以下のファリサイ人と徴税人のたとえを読むのもいいでしょう。「 心が貧しい 」とは、原文ギリシャ語では「 霊において貧しい 」となっており、「 神様に対して何も誇るものを持たない 」という意味なのです。・・・・天の国とは、神の力であり、神が共におられるという喜びです。それを手にすることは、人生という荒波に翻弄されても、決して漂流してしまわない堅固な錨に結ばれるようなことなのですよ。

1月18日(金)マタイ5章4節
「 悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる 」・・・なんと世間の価値観と対立する言葉なのでしょうか、これは・・・・。悲しまない人こそ、幸いだと人々は考えます。このイエス様の御言葉は、ヨハネの黙示録21章の「 わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・・・見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである 」という世の終わりの時の祝福を、人生のゴールと見定めていない限りは、決して納得できるものではありませんね。

1月19日(土)マタイ5章5節
 柔和な人々は幸いであるとイエス様は言われます。聖書がイメージする柔和は、イエス様のエルサレム入城を思い浮かべると良いのです。ロバの子に乗って入城するイエス様を聖書は「 柔和な王が入って来られる 」と言っています。イエス様を出迎えた人々は、ユダヤをローマの支配から力ずくで解放してくれる救い主として、歓呼のうちに迎えたのでした。しかしイエス様は強い軍馬ではなく、弱いろばの子に乗って進まれます。より強い力で、相手を打ち倒し、自らの力を誇示する道( 世界の指導者たちは皆、そうしますが )をイエス様は進まれませんでした。それを聖書は柔和と言います。強さを誇るのは、しばしば裏側にある弱さを隠すためです。弱さを隠すのではなく、あえて弱さの中に立つ。そこにこそ、この世界が神の祝福を代々に引き継いで行くことを可能とする道があることを忘れないように。

1月20日(日)マタイ5章6節
義に飢え渇く者は幸い・・・あなたは義に飢え渇いていますか。義に飢え渇くというのは、悪と不正がまかり通るこの世界の中に、神の正義が行われることを切望することです。ルカ18章1節以下の「 裁判官とやもめのたとえ 」を思い出します。やもめは、正義の裁きが行なわれることを切望しました。私たちも神の正義が行なわれる主の再臨の時を飢え渇くように切望して、祈りましょう。気を落とさずに絶えず「 再臨の時を求めて 」祈ることを、主が私たちに求めておられますよ。