2013年1月6日日曜日

聖書日課 1月7日〜13日


成瀬教会 <聖書日課>  1月7日~13日

1月7日(月)マタイ3章1節~6節
 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「 荒れ野で叫ぶ者の声がする。『 主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ 』」(3節)。この人はバプテスマのヨハネと呼ばれる人ですが、私たちすべてのキリスト者には、このヨハネのように誰かがイエスとお会いするための道備えの役割を担っているのだと思います。道備えをする人という意識を持って歩んでいると、神様はいろいろな形で道備えの場を私たちのために用意してくださっていることに出会えます。あなたは、あなたの家族のヨハネなのかも知れません。お友だちのヨハネなのかも知れませんよ。

1月8日(火)マタイ3章7節~12節
 バプテスマのヨハネの悔い改めを迫る激しい言葉に圧倒されてしまいますね。「
手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる 」(12節)などと言われると、バプテスマのヨハネ後に来られる救い主は、ヨハネよりもさらに恐ろしい裁きをなさるのだと怖気づいてしまいます。しかし、救い主イエス様が実際になさったことは、裁きを受けるべき私たちに代わって、ご自分を父なる神の裁きの火の中に投げ入れてくださるということでした。その恵みを知る中で、真実の悔い改めは起こります。頭ごなしに悔い改めを迫られても、人の心はそんなに柔らかくないのです。

1月9日(火)マタイ3章13節~17節
 イエス様の洗礼の記事です。イエス様が私たちと同じように洗礼を受けられたというのは、私たち人間の一人になってくださったと言うことでしょう。イエス様が水の中から上がられると、天が開き、神の霊が鳩のように降り、天からの声が聞こえました。このときから、イエス様の救い主としての公生涯が始まります。救い主としての使命に生きる生活が始まるのです。私たちの人生もひとりひとり、神様から何らかの使命をいただいます。その生活は、洗礼を受け、天からの声に導かれることによって進められていきます。天からの声を聴くこと、聖書を通して神様からの語りかけをいただくことを怠らないようにしましょう。使命に生きるために。

1月10日(木)マタイ4章1節~3節
 「 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた 」(1節)。洗礼を受けて、救い主の使命に生き始めた途端、神の霊はイエス様を荒野に導かれました。快適な環境へと導かれたのではありません。私たちは洗礼を受けたら、その後の歩みは快適な歩みが待っているに違いないと神様に期待するかも知れません。しかし、そうではないのですね。神の霊は、私たちを荒野のようなところへと導かれることもあるのです。あなたが今、荒野のようなところを通されていることは、神の導きからはぐれてしまったということではないのです。むしろ、あなたをそこへ導いた神の霊の「 導き 」の中にあなたはいるのです。

1月11日(金)マタイ4章4節
「『 人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる 』と書いてある 」(4節)。荒野で悪魔の誘惑を受けるイエス様。創世記には、最初の人間アダムが悪魔の誘惑に負けて、神に背いたことが記されています。救い主は、その悪魔の誘惑に打ち勝ち、悪魔を滅ぼすことによって、私たちを悪魔の手から取り戻されるのです。その戦いが今、始まりました。悪魔に貶められたアダムには、日ごとのパンを得るための厳しい労働が課され、エバには産みの苦しみが与えられました(創世記3章)。パンを得るための労苦は大変です。それと同じように、神の口から出る言葉、霊のパンをいただくことも、簡単なことではないのです。日々、御言葉に耳を傾けるための戦いが誰にでもあるのです。楽してパンを得ることはできません。時間を聖別するための戦いを忘れずに。

1月12日(土)マタイ4章5節~7節
 イエス様は悪魔の誘惑に対して、聖書の言葉をもって対抗しておられますね。悪魔は、神殿の屋根の端にイエス様を立たせて、「 神の子なら、飛び降りたらどうだ。『 神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える 』と書いてある 」と言いました。「 あなたの神である主を試してはならないとも書いてある 」それがイエス様の答えでした。神様の愛をいたずらに試すことは許されてはいないのです。愛は、それが深ければ深いほど、後になって分かるものです。親の子に対する愛がそうであるように・・・。だから簡単に、父なる神様の愛が私たちに理解できると思ってはなりません。時として、「 どうしてこんなことが 」という事も与えられることがあります。

1月13日(日)マタイ4章8節~11節
悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「 もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう 」と言います。イエス様は、「 あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある 」と言われました。本当に仕えるべき方に仕え、拝むべき方を拝み始めるとき、私たちはこの世の栄華などに誘惑も魅力も感じなくなって行きます。神に仕える喜びがそれらのものよりも圧倒的に喜ばしいものになるからです。幼子イエス様を拝んだ星占術の学者たちは、安心して宝物を手放して、帰って行きましたよね。本当に拝むべき方を拝むことができた喜びが彼らを包んでいたからです。