2012年12月30日日曜日

2012年12月30日 説教要旨


「 神の憐れみが届く所 」 ルカ18章9節~14節

今年最後の礼拝、一年の終わりの時期というのは、一年を振り返って恵みを数えたり、あるいは至らなかったことを悔い改めたりする時を持つもの。今朝、私たちに与えられている聖書の言葉は、そういう私たちに自己吟味の助けとなるような箇所だと思う。この話は「たとえ」と言われているが、とても作り話とは思えない。ノンフィクションでも見ているかのように、私たち人間の姿を克明に見せてくれているたとえ話である。

 2人の礼拝者の姿が語られている。ひとりは、ファリサイ派の人間。彼は「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」を代表する人物として登場している。彼は、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と言っているが、これは当時の規定以上のことであって、彼の信仰の熱心さを証するものである。しかしその彼が、礼拝後、神に義とされて家に帰ることはできなかったと言うのである。「義とされる」というのは、正義感があるとか、道徳的な意味で正しいということではなくて、神と正しい関係にあるという事。このファリサイ人は「あなたは私と正しい関わりにある」と、神に言っていただけなかったのである。それはなぜだろうか。

その理由は、彼の祈りの中に明確に現れている。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」という彼の祈りには、神に何かを求めるという姿勢はない。徴税人のように赦しを求めることもないし、何か自分の欠けているものを満たしてくださいというものもない。むしろ、自分の立派さを主張しているだけで、神様に何かをしていただかなくても、自分は十分にやっていけますという誇りに満ちた姿勢でしかない。彼は「感謝します」と言っているが、神を頼らなくても自分の力でやっていける、そういうところでなお語られる感謝の言葉は、何と空しい言葉であろうか。イエス様は、このファリサイ人を自分は正しい人間だとうぬぼれていると言っておられるが、「うぬぼれて」は、原文はギリシャ語は「信頼する」という意味もあり、マタイ27章43節ではそのように訳されている。このファリサイ人は自分の正しさに信頼しているのである。あの十字架の上で人々からの嘲りを受けながら、なおも神に信頼したイエス様の信頼と同じような信頼を自分自身に対して抱いているのである。言い換えると、神を必要としないということ。神を必要としないほどに、自分の正しさを、自分の力を信頼しているのである。ファリサイ人の祈りには、神のお姿が一向に見えてこない。徴税人の祈りでは、罪人を憐れむ神のお姿が段々と大きくなってくるのだが、ファリサイ人の祈りには神のお姿が見えてこない。私たち人間は、真に神が見えなくなる時、隣人のみが見えるようになる。その隣人が大きく見えれば劣等感になるし、小さく見えれば優越感になる。神なしに隣人を見ると、必ず、この2つのどちらかになる。彼は他人を見下した。他者を見下すというのは、神から与えられたに過ぎないものを、その源から引き離して、自分の所有物にしてしまい、神の力と助けによってのみ可能となったことを自分の功績にしてしまうことから生まれる。ただ神様の恵みのゆえに可能となるような信仰の歩みだということを真剣に受け止めているならば、それが他者を見下す材料となることはない。私たちは何と、この過ちを犯してしまうことだろうか。自分の努力で勝ち取ったものも、本当は神に与えられた才能があってこそ、実を結べるものでしかないのに。それなのに、いつの間にかそれを自分の功績と考え、他者を見下す材料としてしまうなんて。ファリサイ人の立派な信仰生活だって、神の賜物があってこそ初めて可能となるものだったのに・・・。

一方の徴税人は、「遠く離れて」立っていた。ファリサイ人の立つ位置までは来られないのだ。この人は、普通の人がするように自分はできないと思っている。ファリサイ人のように、胸を張って祈ることなど、当然できない。むしろ反対に胸を打ちたたく。だからと言って、神から完全に離れてしまうこともできないのである。遠く離れていても、自分は目を天に向けることができなくても、神には目を向けていただきたいと思っている。神の方で自分の祈りに耳を傾けてくださるなら、神が私を赦してくださることも起きるのではないか。いや、神が自分を赦してくださらなかったら、一体自分は何を頼りに生きていけるのか。そういう思いで神の憐れみにすがっている。彼は・・・神に義とされて帰って行った。自らの弱さを知る謙遜な教会でありたい。ファリサイ人たちのように、自分たちは立派で、あとの人たちは駄目だ、みたいな教会に誰が来るであろうか。むしろ、この徴税人のように、神の御前に胸を打ち叩くことを知っている教会でありたい。それほど弱く、貧しい存在なのに、しかし神はそれを憐れんで救ってくださる。そう信じているところに人は集まるもの。自分も弱くても大丈夫だと思えるから・・・・。