2012年8月5日日曜日

2012年8月5日 説教要旨


神の国の現実に生きよう 」 ルカ13章18節~21節 

「からし種のたとえ」と「パン種のたとえ」、2つのたとえ話が記されている。いずれも「神の国」という言葉で始まっている。「神の国」は「神の支配」を意味している。イエス様はこの2つのたとえを通して、この世における神の支配について語ろうとしておられる。ある人は、神の支配はこの世においては何よりも教会と言う姿をとっていると指摘する。だからこれらのたとえは、教会について語っているのだと言う。なるほど、それもひとつの正しい理解であろう。確かに、これらのたとえは、この世における教会の姿を語っていると読むこともできるであろう。

 最初のたとえは「からし種」のたとえ。からし種は、直径1ミリに満たない小さな種だが、成長すると5メートルもの大きな木になる。大きな葉が広がり、葉の陰に鳥が巣を作るほどになるそうである。このたとえは、このように解釈されてきた歴史がある。「教会はその始まりは小さいけれども、必ず大きくなって行くのだ。極小のものから始まり、全世界に広がる力強い働きへと必ず展開する」と言う具合に。確かにこの世における教会の歴史はそのような歩みを辿ってきたと言える。しかしからし種のたとえは、そういうことを教えているたとえなのだろうか。

よく日本の教会は、小さいと言われる。日本のキリスト者人口も、1パーセントに満たない。それゆえ、日本の教会は社会に対して発言権を持てないのであって、もっと教会が大きくなって、キリスト者の数が増えなければ、社会に対する影響力も強くはならないと・・・・。そして、大きい教会になれないでいる教会はダメなのだと心のどこかでそういう意識を持ってしまっている。しかし、教会は必ず大きくなるという約束、それがこのからし種のたとえの中心ではないであろう。もし、そのように解釈していくならば、教会は世の中で尊重されている価値観、すなわち量・力・数と言ったことに巻き込まれ、踊らされているに過ぎなくなると思う。私たちはもっと「からし種の小ささ」に目を向けるべきであると思う。すなわち、このたとえの強調点は「小ささの中に、すでに決定的な力を秘めている」と言う点にあるのである。次に登場するパン種のたとえも同じことを言っている。パン種は非常に小さいけれども、パンを大きく膨らませる力を秘めている。小ささの中に決定的な力が秘められているのである。教会はそこにいつも目を向けなければならない。

 小ささの中に秘められた決定的な力とは何か、それはイエス様ご自身のことである。教会は、それがどんなに小さな群れであっても、その中にイエス様という決定的な力が秘められている群れなのである。それゆえ、教会は「自分たちは小さいから」と言って、恐れる必要もないし、自己卑下する必要もない。

神はこの世における神の国、教会を、小さな群れとしてお建てになる。それはこの世の支配者たちが作る国とは反対である。この世の支配者たちは、たくさんの人々を集め、その上に国を建てる。古代エジプトの王が建てたピラミッドは、そういうこの世の支配者の特質をよく示している。下には巨大な基礎を持ち、上は尖端で終わっているのだ。しかし神がこの世界に神の国を建てようとされるとき、それはピラミッドとは「逆の姿」で建造される。その建造物の基礎は天にあり、その尖端は天から地上にまで達している。神の軍勢のうち、ただその細い尖端だけが小さい群れとして地上にその姿を現している。それがこの世における教会の真の姿なのである。もしかしたら、地表に接している部分は2人または3人がイエス様の名によって集っている群れであるかも知れない。しかし大きい教会も小さい教会も皆、天においては同じ基礎につながっているのである。そして、どの教会も、等しくイエス様という決定的な力を秘めた方が共におられるのである。だから私たちは、この世の中で自分たちが小さいことに対して勇気を持っていい、恐れなくていいのだ。私たちが行う業は、この社会の中にあっては極めて小さく、影響力も取るに足らないものであるかも知れない。しかし教会の一員である私たちがなす業はすべて、天の軍勢につながっている者としての業であり、決定的な力をお持ちであられるイエス様が共におられるところでなされる御業、私たちが今、行なっている小さな働きはやがて完成する神の国の先端に組み込まれているのであるから。

あるキリスト者が知人に宛てて書いた手紙の中の一部を紹介しよう。「アメリカでテロが起きました。私たちは2人とも戦争中に物心つき、疎開地で敗戦を迎えた世代です。『戦争さえなければ・・・』という思いでこれまで生き、子どもを育てて来ました。その歩みを根底から覆されるような出来事でした。紛争や混乱は世界に波及し、特にインドネシアの情勢を皆が心配しています。そんな中でジャカルタに住む長女から『今度の4月に3人目の子どもを生む』という報告が届きました。私たちはこれを宗教改革者マルティン・ルターの言った『たとえ明日、世界が滅びても、今日、私はりんごの木を植える』という言葉のように聞きました。絶望の流れを見てあきらめるか、はかなく小さな業と知っていても希望に賭けるのか、『生きる』とはその選択なのだと思っています」・・・。私たちは神にあって、その小さい働きに希望をかけることができるのだ。この世における神の国の現実に生きるとは、まさにそういうことであり、私たちはそう生きられるのである。