2012年7月29日日曜日

2012年7月29日 説教要旨


安息日を聖とする 」  ルカ13章10節~17節 

今朝の福音の出来事は安息日に起きた。安息日は、神がイスラエルの民に与えられた掟のひとつであり、出エジプト記には「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」と記されている。聖別するとは、どういうことであろうか。そこでこういうことを話してみたい。聖書の中に登場する祭司は、神と人々との間に立って宗教的儀式を執り行う。彼らは、聖なる神に近づいて儀式を行なうので、神からの清めを受け、聖なる者とされる。すなわち、神の聖さを身に帯びるのである。神の聖さを帯びた祭司は、さまざまな誓約を受ける。たとえば、家族以外の葬儀に出席することを禁じられる。聖さのグレードがさらに高い大祭司に至っては、家族の葬儀の出席も許されない。聖さを死に近づけてはならないのである。それは、神の聖さは命を象徴しているからである。聖さと命は深く結びついており、反対に汚れと死も深く結びついているのだ。したがって、安息日を聖別するというのは、それを命の満ちる日にしなさいということ、生きている喜びが満ち溢れる日にする、それが安息日を聖とするということの意味なのである。

 そういう観点から今朝の物語を読むとき、そこには命が満ち溢れるという喜びは、全く影を潜めてしまっているのではないか。18年間も病の霊に取りつかれ、腰が曲がったままの女性。彼女に同情を抱くものはいなかったのか・・・。彼女の苦しみを取り去ることができない自分たちの無力を嘆きながら、その痛みのために共に祈るものはいなかったのか。命が満ち溢れる安息日の礼拝であるならば、この女性の弱さや痛みが皆の配慮の中に置かれ、皆の祈りの中に置かれるべきでなかったか。もしそうされているならば、その病が癒されなかったとしても、彼女に仲間がいるという支えを得て、命が満ち溢れるということが起こりえたのではないか。だが、そのような気配は全く感じられない。むしろ、イエス様が彼女を癒されたとき、礼拝の責任を負っていた会堂長が腹を立て、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と文句をつけたほどである。イエス様の治療行為は、立派な労働とみなされ、安息日の戒めに反する行為であると非難されてしまったのである。しかしイエス様は、「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」と反論された。安息日は、命が満ちる日であるべきだ。生きていることの喜びがあふれる日であるはずだ。私はその原点を取り戻すと言われるのである。イエス様は彼らの安息日に革命を起こそうとしておられるのだ。そこで私たちの安息日はどのようになっているかと考えさせられるのである。イエス様に革命を起こしてもらわないといけないようなものになっていないだろうか・・・・。

 安息日は、「いかなる仕事もしてはいけない」とある。これは実に深い意味を持つ言葉だと思う。なぜなら、多くの現代人は、何かの活動をし、何かの成果をあげる、つまり働くことによって、自分の価値を見出し、生きる喜びを味わおうとするからである。反対に、働くことをやめるというのは、何か自分が不必要な人間、もはや生きる意味のない人間になってしまったと感じているのである。安息日の戒めは、あなたがどんな働きをするかということによって、あなたの命の価値が計られてはならない。むしろ、あなたがただ存在しているということこそが、命が満ち溢れる根拠とならなければならないと告げているのである。私は思う。18年間腰の曲がった女の人は、仕事なんか全くできなかったのではないかと・・・。働くこともできなくなった自分は、ただ皆の足を引っ張るだけの存在で、とても生きる喜びなんて感じられない。むしろ、生きることは苦しみでしかないと感じていたのではないか・・・・。働いて何かの成果を生み出すことに大きな価値を見出そうとする社会は、この女性の存在価値を否定し、彼女の中に命が満ち溢れることを妨げる方向に作用していたのではないか・・・。それは今日の社会においても、あてはまることなのではないのかと・・・。安息日は、何よりもあなたの存在そのものを神が喜んでいてくださることを覚える日であり、その神の喜びを私たちの喜びとする日なのである(神の喜びを共有する日)なのである。イエス様は、そういう安息日を取り戻そうとしておられる。ちょうどロンドンオリンピックが始まった。メダルを取ることを期待されながらも、それに応えることができなかった選手が、自分の存在まで否定するかのような発言をしたり、メダルを取れたときに初めて自分の存在を認めてあげられるみたいな発言を聞くと、ひどく胸が痛む。私たちは労働の分野だけでなく、スポーツでも、あらゆる分野において功績主義のとりこになっており、功績を生み出せない者は存在する価値もないという恐ろしい価値観のとりこになっているのではないか。宮井理恵姉が幼子を腕に抱いて「生まれて来てくれただけでうれしい」と言っていた。存在がすでに大きな喜びとなっている。神様も私たちのことを同じように見てくださっているのだ。高齢になると、何もできなくなった自分は意味のない存在だと思えてくるかも知れない。しかし安息日規定はそういう思いと戦うことを私たちに求めている。皆で共に戦うことを。