2012年8月12日日曜日

2012年8月12日 説教要旨


あなたは入るのか 」 ルカ13章22節~30節 

オリンピック選手たちがメダルというひとつのことを目指して歩む姿に心動かされている。その努力が実ってメダルを手にすれば、自分のことのように喜ぶし、メダルを逃せば、わがことのように悔しく思う。今朝の聖書は、イエス様がエルサレムへと旅を続けられたと始まる(22節)。 ルカは、エルサレムをひたすら目指して進まれるイエス様の姿を何度も伝えている。まるでオリンピックの選手たちのように、ひとつのこと、エルサレムだけを目指して突き進んで行かれるイエス様。エルサレム、それは十字架の場所であり、およみがえりの場所。私たちに対するイエス様の激しい愛、そのすべてを注ぎ出される場所である。果たして・・・・その愛は、実りを得られるのであろうか。今朝の聖書箇所は、書かれている内容を理解することはそれほど難解ではない。しかしそれを心から受け止めてアーメンということは難解な箇所である。イエス様の大変、厳しい言葉が記されているからである。ひとたび、家の戸を閉めてしまった主人は、中に入れてくださいと叫んでいる人がいても、入れてあげないのである。締め出された人たちも必死に弁明する。しかし「お前たちを知らない」と言って、戸を開けることはいない。この主人とは、イエス様のことであるが、あのイエス様が、一体、どうしてしまったのかと思う。こういう聖書の言葉というのは、イエス様の激しい愛、一途な思いでひたすら十字架目指して歩まれる、そこに現されている激しいほど愛をまず知ることがなければ理解できないような御言葉であると思う。

イエス様は「あなたがたがどこから来た人なのか、私は知らない」と言われる。自分がよく知っていると思っていた人から「あなたのことなど知りません」と言われたら、大変、薄情な扱いを受けたと思うだろう。震災以降、絆が大切だ、絆を結ぼうということが言われ続けている。絆を結ぶというのは、お互いに「ああ、あの人のこと知っているよ」と言える間柄になるということ。たくさんの絆で結ばれて、知り合いが多いということが、いざと言うとき、どれほど頼りになることか、私たち日本人は今、身にしみて、体験している。このイエス様の言葉を直接、耳にした人たちもまた、私たち同様、絆ということを大切に思っていたに違いない。人である以上、絆の大切さを無視して生きることはできない。そういう絆の大切さを実感しているところで、イエス様はまるでその絆を自分の方から断ち切るかのように「あなたがたがどこから来た人なのか、私は知らない」と言われるのである。

この言葉を聞いている人たちはユダヤ人である。神様のことなど全く知らないという人たちではない。アブラハムのことも、イサクもヤコブもよく知っている。あれは私たちの先祖、その先祖をあなたは選び、愛して祝福してくださった。彼らの血を引く私たちもまた、変わることなく、あなたの愛の中にいる。私たちは、あなたに選ばれた民・・・・。そういう自負を持っている人たちに対してイエス様は言われたのである。しかしこのことは、私たちにとっても厳しい問いかけとなるだろう。あなたがたは救いの中に入っていると思っている。事実、そうかも知れない。だが、救い中に入ったという安心感の上にあぐらをかいてしまい、いつしかイエス様の激しい愛に繰り返し、応答して行く姿勢を失ってしまってはいないかと・・・。

イエス様は、激しい愛をもって、これらの言葉を私たちに語ってくださっている。イエス様はご自分の十字架を語られるたびに、そこで合わせて、弟子たちに向かって「わたしに従いたと思うものは、自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言われた。つまり、イエス様の私たちに対する一途な思いに見合うような愛、あなたたちもそのような愛をもって、わたしに従ってほしい、私を愛してほしいと訴えられたのである。そのことをもう一度、心に刻もう。「狭い戸口から入るように努めなさい」の「努める」という言葉は、オリンピックの競技選手がたくさんの観客に見られながら、競技者として戦うことを意味する言葉から生まれたそうである。それは、他の選手と戦うというよりも、自己との戦いという意味が強いのだそうだ。なるほど、アスリートは本当の敵は自分だ、とよく言う。私たちも自分のうちに働く罪、イエス様との絆を弱め、断ち切ってしまおうと働く、自分の中にある罪と戦うようにと促されているのである。ある本の中に、「もう遅すぎるということがある。まさに愛の世界では」ということが記されていた。愛の世界において、遅くても良いというのは、眠っているような愛、どうでもいいような愛であり、真の愛においては、もう遅すぎるということがあるのだ、と言うのである。遅くても良いというのは、眠っているような愛、どうでもいいような愛。イエス様の愛、どうでもいいような愛ではない。入りたくなかったら入らなくてもいいし、無理に来なくてもいい。そういうものではない。主は私たちを愛しておられる。だからどうしても入って来てほしい。戸が締められてしまうという厳しさは、そういうことではないのか。それは、愛の真剣さの証なのである。このたとえ話は、「救われる者は少ないのですか」という質問から始まっている。まるで他人事のような質問である。あなたは入るのか、入らないのか、従うのか、従わないのか。あなたの決断をイエス様は真剣に求めておられる。私たちも真剣に応え続けて行きたい。