2012年8月19日日曜日

2012年8月19日 説教要旨


主イエスの嘆き 」 ルカ13章31節~35節 

私たちは口には出さないまでも、いろいろな祈りの課題を抱えてこの礼拝の場に集まる。ここに座りながら、なぜ、この苦しみがまだ続いているのですかと祈り、あるいは喜びにあふれて、感謝を捧げている方もいるだろう。神の御前に集まって、それぞれに心を注ぎ出している。そういう私たち礼拝する者の心を詩編61編は適切に表している。「神よ、わたしの叫びを聞き、わたしの祈りに耳を傾けてください。心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。あなたは常にわたしの避けどころ・・・あなたの翼を避けどころとして隠れます」と。私たちは、この詩編が歌うように、悲しみや苦しみを抱えたまま右往左往してしまう自分たちを、神のみ翼で覆っていただきたい。私たちの避けどころとなっていただきたいと願う。よく世間一般では、神を信じるというのは、心の弱い者がすることであって、結局のところ、この世の厳しさから逃避しているだけではないか、と非難されることがある。しかし詩編の中では、私たちは逃れる場所を持っているということが誇らしく歌われているのだ。お酒を飲むところに逃げ場を見つけるわけでもなく、遊びにふけることに逃げ場を作るのでもない。神の御前に私たちは逃れ場を持っている。そこで神のみ翼に覆っていただく、それに勝る平安はこの地上のどこにもない。

今朝の福音はルカ13章31節以下、イエス様の嘆きの言葉が記されている。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(34節)。イスラエルの民は、旧約の時代から新約の時代に至るまで、ずっと主のみ翼に自分たちが覆われることを願い続けて来たのではなかったか。そして今、御子イエス様が遣わされ、神はこの御子を通して、イスラエルの民をご自身のみ翼のかげに憩わせようと、その翼を大きく広げてくださっているのではないか。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とイエス様は言ってくださった。それなのにお前たちはわたしの翼のかげに憩うことを拒否したと、イエス様は深く嘆いておられる。なぜ、こんなことになってしまったのだろうか。

イスラエルの人々はイエス様が語られる神の国よりも、もっと別のことを神に望んでいたのだ。それはイスラエルの国が政治的、軍事的にローマの支配から独立して国を再興すること。神が救い主を遣わして、それを達成してくださることを人々は期待していた。つまりイエス様が語られる罪の赦し、罪からの解放と言う福音は彼らが切に望んでいたものではなかったのである。神が与えてくださろうとしているものと、自分がほしいと願っているものとのギャップ、そのために彼らはイエス様を拒絶してしまったのである。私たちもまた同じ経験をしていることだろう。神が与えようとしておられることと、自分の願いが異なる。そのとき、私たちはどういう態度をとるだろうか。イスラエルの人々は、そのような理由で旧約の時代から神の預言者たちを殺し続けてきた。すなわち、神の言葉を殺して来たのである。そして今、神の言葉を語られるイエス様をも拒絶し、殺そうとしている。ここに登場するヘロデは、自分の意に沿わない神の言葉を語った洗礼者ヨハネを殺してしまった。一方でヨハネが語る神の言葉に関心を示して耳を傾けてもいたのだが、結局は殺してしまった。神の言葉は・・・・神以外のものに頼って平安や静けさを保とうとする生活の中に飛び込んでくるとき、その静けさを打ち破る。そして本当にそれでいいのかと、私たちの心を揺さぶり始める、そういう言葉だ。そのとき、私たちの存在が根底から揺り動かされる。けれども大事なことは、そこから揺り動かされて、神の翼のもとに立つことなのだ。そこでこそ、本物の平安、憩いを得ることができる。光市の母子殺害事件で被害者となってしまった方は、加害者に死んだ家族と同じ目に遭わせたいと願い、裁判を起こし、その願いを達成した。しかしその直後の記者会見で、この裁判に勝者はいないと語った。とても心痛む言葉だった。自分の思いを貫き通して勝利しながら、空しさだけが残る。同情を禁じえない。だが、多くの時間を必要とするだろうが、彼が本当の意味で心に平安を覚え、憎しみから解放される唯一の道は、悪に対して悪に報いず、汝の敵を愛せよ、という神の言葉を生かす道にしかないのではないかと思う。自分の思いの成就ではなく、神の思いの成就、神のみ翼のもとに身を寄せてこそ、深く傷を負った人の魂が癒されうるのではないか・・・私はそう信じる。かつてアメリカの大学で銃殺事件が起き、その追悼式が行なわれた。そのときの写真を見たが、33個の石と花束が学校の芝生の上に置かれていた。しかし殺された人の数は32人だったはず・・。そう、あとの1個は自殺をした犯人のためのものであった。追悼に集まった人たちにはいろいろな思いがあつたに違いない。しかしここに神の言葉を殺さないで生きようとしている人たちの姿を見る思いがする。自分の中に生じるさまざまな思いを神に明け渡し、委ねるようにして神のみ翼のもとに身を寄せる。神の言葉が生きて働くように選択をする。私の思いではなく、神の思いが成就するところに、私たちにとっての真の憩いがあると信じよう。イエス様の嘆きの心を信じよう。