2012年8月26日日曜日

2012年8月26日 説教要旨


神の招きを受ける道 」 ルカ14章1節~14節 

「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた」(1節)。おそらく安息日の礼拝が済んだところなのだろう。会堂司だったと思われるファリサイ派のある議員がイエス様を食事に招いた。私たちの教会でも、礼拝の説教に外部から先生をお招きした場合、礼拝後に先生を囲んで食事をする。共に神様を礼拝した喜びが互いの心を開き、くつろいだ和やかな雰囲気で交わりを楽しむ。おそらくイエス様の時代の安息日礼拝の後の食事も、本来そうあるべきだったに違いない。しかし、その食事の模様は異様なものとなっている。イエスの様子をうかがっていた。隙あらば、イエス様につけ込もうとしていたのである。イエス様の前には水腫を患っている人がいた。当時の考え方によると、不道徳な生活をした報いとしてこの病になる。それゆえ、ファリサイ人のような潔癖さを求める人の家には本来いないはずなのだ。罠として連れて来られていたのか。それとも、イエス様が彼を一緒においでと招いたのか・・・分からない。いずれにしても、イエス様はこの水腫の男を受け入れておられる。そしてファリサイ派の議員やそこにいた律法の専門家たちに向かって言われる。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」ここで「許されているか、いないか」と訳されている「許す」という言葉は、原文では「外に出る」という意味の言葉。外に出ている、自由である、そういう意味の言葉。当時のファリサイ人や律法の専門家たちは、どこまでなら労働にならず、どこからは労働になると言った具合に枠を定めていた。安息日は働いてはいけない日だったのである。もちろん、医療行為も枠をはめられていた。そこでイエス様は問われる。「この水腫の男の苦しみを思って、それを取り去るために、その掟の外に出る自由はあなたがたにはないのか。この男の苦しみを受け入れる思いで、この男を癒してあげようとひたすらに思う思い、もし癒すことができなくても、この人のために祈ろうとする思いは、あなたがたにはないのか」と・・・。この問いをよく心に刻んだ上で、7節以下のたとえを読もう。両者は深く結びついているのだから。

 7節以下のたとえ、宴会の上席、末席、どちらに座れるか、というたとえ話は何の説明もなくよく分かるような話だと思う。特に、遠慮することを美徳とする私たち日本人にとっては。これは後で恥をかかないように、最初は末席に座っていて、ホストに案内される形で上席に移るようにしなさいという、言わば宴に招かれたときのエチケト、作法を教えているものではない。私たちは、自分が周りのどのように評価され、それに見合う正当な扱いを受けているかを気にする。進んで末席に座りながら、そこから上席に案内してもらえなかったら、「失礼な」と言って腹を立てるのである。そこには、自分の評価に対する自信がある。内心、人は皆、高く評価されることを求めている。求めても得られないと、妬みを抱く。その妬みの心は、高く評価されたいという心のあらわれでしかない。だがイエス様は、評価を求める私たちに「真実に低くなれ」と言っておられる。後でちゃんと高くしてもらえるように、最初は低くしていなさいと言うのではない。本当に神の前に、いつでも低くなっている者であれと言っておられるのだ。このたとえ話の最も適切な注解は、放蕩息子のたとえ話だと思う。放蕩の限りを尽くし、もはや息子と呼ばれる資格もないと自覚した弟息子は、父が自分の帰還を祝って開いてくれ宴会の席のどこに座ろうとしただろうか・・・。末席はおろか、自分には席画なくて当然と思ったに違いない。だが父親は、変わらずに彼を息子として扱い、上席に座らせたであろう。それが「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11節)という御言葉の意味するところである。この弟息子の姿と神の御前における私たちの姿とはひとつに重なるであろうか・・・。あのとき、兄息子はその祝宴に参加しようとさえ、しなかった。彼のプライドが許さなかったからである。この兄と、私たちの姿は重なってしまうのであろうか・・・。低くなるのだ。神の御前に真実に低くなるのだ。自分は本来、神から恵みを受けるに値する人間なんかではないのだと。イエス様は髪の御前に低くなることを認めておられる。そうやって神の御前に低くなったとき、初めて見えてくるものがある。それは神の憐れみの高さだ。神の憐れみがどんなに高いものであるか、それが見えてくる。そしてそのとき、イエス様がこの水腫の男にしてくださっている御業が何であるかもはっきりと見えてくる。だが、自分は神から恵みを受けるに値する人間だとうぬぼれて、自分を高みに置いていたファリサイ派や律法の専門家たちにはその御業が見えなかった。神の招きを受ける道、それは低くなること。神の御前に本当に低くなること。自分は神の御前に誇れるものなど、何もない。神の憐れみによらなければ御前に立ち得ない者。私たちは皆、この神の憐れみの中に立つように招かれている。神の招きを受けている。