2012年4月1日日曜日

2012年4月1日 説教要旨

肯定されている命なのに 」  マルコ14章10節~21節

 12節に「除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日」と記されている。過越祭というのは、ユダヤの民がかつて奴隷状態にあったエジプトの地から神様が救い出してくださった、そのことを記念する大切なお祭り。ユダヤの人々は、この祭りの特別な食事(過越の食事)のために入念な準備をした。お互いに心から信頼できる間柄にある者たちを10人から20人程度集め、そして過越の食事をした。弟子たちの場合、この過越の食事を用意したホストはイエス様。イエス様は過越の食事のホストとして、とても入念なご準備をなさっていた(13節~15節)。弟子たちの知らない所ですでに準備を進めておられた。心を込めて・・・。私たちであってもそうだろう。誰か大切な方を招いて一緒に食事をするということであれば、おいしい食事を用意するのはもちろんのこと、食べ物だけでなく、心のこもったおもてなしの準備をするだろう。そうやって自分がどんなに招いた相手のことを大切に思っているかを伝えようとするだろう。イエス様の場合は、なおさらのこと。この過越の食事の席でイエス様は「とって食べなさい。これはあなたがたのために裂かれる私の体・・・・飲みなさい。これはあなたがたのために流される私の血・・・・ 」と言って、パンとぶどう酒を掲げられる。主イエスご自身が、その命を差し出すほどの大きな、確かな愛を、弟子たちに抱いておられることをお示しになる。「どうぞ変わらずに、私の友でいてください。私の人生の道連れでいてください。あなたに私を差し上げたい 」・・・。過越の食事の席は、主の愛が注ぎ込まれている食卓。

 そのような愛の食卓において、イエス様は今まで決して口にされることのなかった恐るべきことを言われる。18節、「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』」弟子たちしは代わる代わる「まさか、私のことでは」と言った。誰のことか分からなかったのである。ただ一人を除いては。ユダだけは自分のことだと気がついたはず。彼はこの時すでに祭司長たちに主イエスを引き渡す約束をしていたのだから・・・・。主は続けて言われる。「12人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に物を浸している者がそれだ。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。それでもユダを除く他の弟子たちは分からない。主イエスとユダのふたりだけが分かっている。信仰というのはそういう面があると思う。周りの人がどんなに目を凝らしてよく見たって、その人の本当の信仰の姿というのは分からない。でもイエス様とその人だけは分かっている。そのふたりだけのかかわりの中で、イエス様はユダに最後の悔い改めを促しておられるのだ。主は、不幸だと言われた。なぜ、不幸なのか・・・・。最後の晩餐は弟子たちに差し出された神の赦し、キリストの肉と血を通して差し出された神の愛が差し出されている場。そこには神の痛みがある。イエス・キリストの痛みがある。神は人を受け入れるために苦しまなければならなかった。人間に罪があるから。人間の罪を受け入れるために、神は苦しまなければならなかった。そうやって、神が手を差し伸べてくださっている、それが最後の晩餐。主は定められた通りに去って行くのだが、裏切りを実行するユダはその責任を問われる。ユダがなぜ、主イエスを裏切ったのか、そのことははっきりとは分からない。はっきりと言えることは、ユダはイエス・キリストを通して示されたこの最後の悔い改める機会をも、自らの意志で拒否したということ。ユダはすでに裏切りという行為に手をかけていた。しかしそう言う者になお、救いの手が差し伸べられている。救われ難い者が、なお救われうる。それが最期の晩餐。救われ難い罪人に救いの手が差し伸べられている。痛みをもって・・・。

ユダはその愛を拒否する。罪ある者を赦し、その存在を認め、受け入れようとする愛を拒否する。ユダは主イエスの愛の腕の中に抱かれているのにそれを跳ね除けてしまう。その愛を拒絶する者には、もはやひとつの道しか残されていない。世間に自分を認めさせるために、他の人間に自分の存在価値を認めさせようとして頑張って生きる道である。どこかで自分を肯定させなくてはならない。肯定してもらわなければならない。そう思いながら頑張って生きなくてはならなくなるのである。神の愛を拒否するならば・・・。それは非常に不幸なこと。キリストの差し出して下さるこの恵みに自分をまかせることが信仰。こんな自分でも受け入れて下さるから・・・この手を広げているキリストの中に自分を投げ出す。それが信仰。肯定されている自分の命を知る。そこから人間は生き始めることができる。世の中の人間に自分の価値を知ってもらわなければならない。そんなことしなくていい。私たちはこのキリストの差し出してくださった、痛みをもって差し出してくださった恵みの中にいる。そうやって、「ああ、こんな自分の命をも肯定して、赦して、受け入れてくださっている方がいるのだ」と知ることから私たちは生き始める。生きようと思う。私たちは皆、このキリストの恵みのもとにいることを本当に感謝して受け止めて生きて行こう。私たちにはそれが許されている。