2012年4月8日日曜日

2012年4月8日 説教要旨

神の栄光を現せる 」  ヨハネ21章15節~19節

今朝はイースターの礼拝、およみがえりになったイエス様がペトロに語られた言葉を、心開いて聴きたいと思う。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」・・・そう、主は3度ペテロにお尋ねになった。3回同じことを繰り返されたのでペトロは悲しくなった。主が十字架にかけられた前夜、鶏が2度鳴く前に3度主を知らないと言ってしまったペトロ、主はそのことを意識して問いかけられたのだ。一番の痛みの部分にペトロは触れられたのである。一見すると酷のようにも聞こえるが、主はペトロの信仰のリハビリテーションをしようとしておられるのだ。リハビリと言うと、元の状態に戻すことを考えるかも知れないが、主のなさる信仰のリハビリは元の状態に戻すことではない。元の状態よりもさらに良くする。このときのペトロはすっかり自信をなくし、主の弟子であり続けることをあきらめて、ガリラヤの漁師に戻って来てしまっている。しかし主はそのようなペトロを弟子として復帰させるばかりか、いよいよ弟子としての主の愛に生きられるようにしてくださる。それが主のリハビリ。

 私たちにもペトロと同じように信仰のリハビリが必要なのではないか。さらに深められた信仰生活へと立ち直って行くリハビリが。私たちも主との親しい関係の中に力強く復帰することを必要としている。それができるとき、私たちは自分の心身の立ち直り、生活全体の立ち直りもできるだろう。そして仕事や人間関係の中でも立ち直ることができるだろう。信仰生活を生きている人で、このリハビリテーションを必要としない人はいまない。どのクリスチャンもその使わされた場所で戦い、傷つき、疲れを覚える。主イエスによる信仰生活のリハビリテーションを必要としている。復活の主の慰めの中で繰り返し、立ち直ることを必要としている。私たちが毎週捧げる礼拝というのは、そういうイエス様のリハビリを受ける場なのでる。

主は、「あなたはわたしを愛しているか」とペトロに問われた。この問いかけによってペトロは深く痛む。しかしその痛みの中でペトロは主の愛を深く感じている。一般的に言って、誰かが人を見限っていたならば、その相手に声をかけることはしないだろう。無関心になるか、仮に声をかけたとしてもあたりさわりのない表面的な言葉でやり過ごすに違いない。主はペトロに声をかける。しかもペトロの心の深いところにある問題に触れる言葉をもって・・。ペトロを愛しておられるのだ。これからもペトロと関係を持ち続けたいと願っておられるのだ。ペトロにはその思いがひしひしと伝わっている。ペトロはそこで主の思いを聴いている。「ペトロよ、私の身に起きた受難の苦しみ、十字架の出来事、復活・・・それらの一連の出来事は、すべてあなたのためのものだったのだよ、それが分かるか。分かっていれば、それでいいのだよ。ならばあなたは立ち直れるね」・・・・という主の思いを。主の問いかけに対して、ペトロは「はい、主よ わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えている。答えになっていないようにも聞こえるが、これはすべてをあなたにお委ねしますというペトロの信仰告白、愛の告白である。「あなたは全部知っていてくださる。私がどんなに弱い人間であるか、もろい人間であるか。それでいて私を愛するかと私に声をかけていてくださる。私は今、私の弱さの全部をあなたにお任せして、あなたに従って行きたいと思います。私のことをすべて知っていてくださるあなたが・・・・この私の中にあなたを愛する愛を造り出してくださることでしょうから、私はすべてお任せして従って行きます・・・」。

「あなたはわたしを愛しているか」、この問いは、あなたは主を愛する者とされているではないか、という響きを持つ。自分はイエス様を愛する者とされている、主がその歩みを支えてくださっている。私たちのリハビリも同じであって、主イエスを愛する者とされているということ、その愛を主が支えていてくださるということを繰り返し、主からの問いかけを受けて、新しく受け止め直して行く。私たちが自分に失望しているときにも、主以外のいろいろなことに心が傾いて思い煩いに心が潰されてしまいそうなときでも、私たちは主を愛する者とされている。それによって私たちの人生の中心はイエス様に置かれていて揺るぎがない。私たちは「主を愛する者」とされているではないか。そこからいつでも立ち直ることができるのである。

主は、そのあと「わたしの羊を飼いなさい」と言われた。主の弟子とされた人には、誰にでも主から託された主の子羊がそばにいる。主を愛するその愛によって、愛をもって接すべき人が幾人かは与えられている。あなたの家族、友人、同僚、主にある兄弟姉妹。その務めを負う中で、ペトロがどんな死に方をするかも主は告げられた。行きたくないところ、それは何よりも死を意識させる場のことではないかと思う。だが、そこでもペトロは神の栄光を現せると言う。死の恐怖からイエス様を3度否んだ過去を乗り越え、ペトロは今度は主への愛を貫ける。主のリハビリがペトロを造り変えたから。