2012年2月26日日曜日

2012年2月26日 説教要旨

「 よこしまな時代から救われよ 」  ルカ9章37節~45節

「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか」(41節)。私たちが口にする言葉とよく似た言葉をイエス様ともあろう方が言っておられる。「いつまで我慢しなければならないのか」。一体、どういうことなのだろうか。原文ギリシャ語では、「我慢しなければならない」という言葉は、時と場合によっては、「相手を喜んで受け入れる」という意味にもなる言葉が使われている。私たちが我慢できないと言っている時には、もうその相手を排除していることの方が多い。こちらの愛が冷めかかっているか、愛しているつもりであっても、その愛が限界に来てしまっているのである。けれども、ここでイエス様が使っておられる言葉では、愛が消えていない。愛しているからこそ、耐えている、そういう心を現している。外国語の聖書では、「いつまであなたがたを持ち運ばなければならないのか」と訳したりしている。重い荷物を運ぶのに似ているのだ。愛の重荷。愛する者の痛みを自分の痛みのようにして運ぶのだ。担ってあげている者、耐えている相手に対する愛は変わらない。そういう心から出て来た呻きの言葉なのである。しかしそれだけに、私たちはイエス様が何に呻くほどの痛みを感じておられたか、鈍感であり続けるわけにはいかない。 

3人の弟子たちを連れて、山を降りて来られたイエス様を待ち構えていたのは、「なんと信仰のない、よこしまな」と言わずにはおれない状況だったのだ。大勢の群集の中に、悪霊にとりつかれて苦しんでいる親子がいた。息子から悪霊を追い出して救ってやってほしいと、弟子たちに頼んだけれどもダメだったのだ。この「よこしま」と訳された言葉は、「曲がった」と訳される言葉である。日本語でも心根の悪いことを「性根の曲がっている」、「根性が曲がっている」と言う。それと同じである。イエス様の言われるところ、「信仰がない」というのは、「曲がっている」ということなのである。神様に向かってまっすぐな心になっていないのだ。

被災地の教会の牧師たちによる座談会の記事を読んだ。そこにこう書かれていた。「一番印象的だったのは、3月11日の直後の日曜日の礼拝の出席者の表情だった。いつもの半数くらいの人たちだったが、停電して照明も使えない。そこに集ってきたひとたちは『神はどこにいるのか』というような表情はしていなかった。ただ、神様の救いのみことばをここで聴きたいという思いがひしひしと伝わってきた」。私は、被災地の信仰者たちは「神様、なぜ、こんなことが」という問いを神様にぶつけているだろうと考えていたのだが、その認識は改めなければならないと思った。 被災地のほとんどの教会では、「神様、どうしてですか」というような問いは、一切、聞こえてこなかったという。かけがえのないものを失い、これから先が全く見えないという中で、ほとんどのキリスト者たちが、「神様、あなたの語られる事を、今、ここで聞かせてください。それこそが今の私たちにとってなくてはならないものです」と、まことに真剣な思いで神様の方を向いていたと言う。私は痛く心を打たれた。これはまさにまっすぐに姿だと・・・。

 「救われる」ということは、曲がった状態から「まっすぐになる」ということ。神様に対して曲がってしまっている心が、まっすぐになる。それが救われるということだ。世間の多くの人たちは、信仰を持つということは窮屈に曲がってしまうことだと考えている。キリスト者自身も、信仰を持つということは、窮屈な世界に入って行くことであり、余計な重荷を背負うことだと誤解していることがある。信仰は重荷を背負うことではない。神様の前にひざをかがめることを知ったときに、人の心は初めてまっすぐになる。むしろ身軽に生きられるようになるのである。

イエス様が山を降りて来られた時に認めざるを得なかったのは、悪霊を追い出せなかった弟子たちが、神様にまっすぐに向かう信仰には生きていなかったということ。9人の弟子たちは、イエス様がペトロたち3人だけを連れて山に行かれたことに、競争意識を駆り立てられていた。だからこの直後に誰が一番偉いかを言い争うことになる。彼らは神様の方を向かず、自分たちのメンツ、体裁ばかりに目を向けていたのだ。「よし、自分たちだってできるのだということを見せてやろう」・・・曲がった心で親子に相対した。それゆえに悪霊を追い出せなかった。

 先の報告に加えて、こういうことも書かれていた。「断水のゆえに、水を求めてさまよう人々に声をかけ、水道栓を全開し、飲料水を提供し続けた教会がある。一方、町内会長と相談し、水が出ることを被災者にひた隠しにした教会がある。その教会が語る福音とは何か。そこは果たして教会なのか」。神様の方にまっすぐに向かない、曲がってしまう、その時、私たちは「神様に造られた人間」からそれた生き方をしてしまう。たが、そのような者を主はなお忍耐し、背負い続けてくださる。我慢するという言葉の背景には、「わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った」(イザヤ書46章4節)があるだろう。神は私たちを造られた。だから責任がある。その責任を最後まで負い続ける。主も、あなたがたの性根がまっすぐになるまで、十字架のもとにまで私たちを背負う覚悟をしておられる。私たちをまっすぐにするために。