2012年3月11日日曜日

2012年3月11日 説教要旨

「 主の仲間となって 」  ルカ9章46節~56節

 「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた」と言う。「誰が偉いか」ということでは、私たちはあまり考えたりはしない。だが原文ギリシャ語では「偉い」と訳されている言葉は「大きい」という言葉である。誰が一番、この中で器が大きいか、つまり能力が高いか、あるいは評価されるべき人間であるか、ということであれば私たちの関心事となるだろう。人は、いろいろな形で群れをなして生きているが、そこでいつも密かに問題になるのはこの中で一体、誰が一番大きいだろうか、ということではないか。誰が一番の功労者か、誰が一番評価されて、その次は誰なのか・・・。弟子たちもその議論をしていた。この後、キリストによって神の国が完成するとき、誰が一番の座に就くか・・・。一端はこの世を捨ててキリストに従った弟子たちだが、それでもやっぱり誰が一番の功労者で、評価されるべき人間であるか、ということが議論になるのである。皆、ある意味で自負があったと思う。こんなに自分は頑張って来たという自負。あるいはこれを捨てた、あれを捨てた、そして耐えてきたという自負。およそ、苦労した人というのは、自分が一番苦労してきたと思うのである。いろんな人が苦労したかもしれないが、自分ほど苦労している人間はいないと思う。このグループ、家庭、集まりは、自分が一生懸命我慢をしているから成り立っていると思う。自分がいろんな荷物を背負い込んでいるから、この交わりは成り立っているのではないかと考える。もし、自分がこれだけの我慢をしていなければ、ここの人間関係は壊れていたに違いない・・・。たいていの人間はそういうふうに考える。弟子たちは議論をした。初めは静かな議論であっただろう。それが次第に声高な議論になり、そしてイエス・キリストの知るところとなる。

 49節からのところでは、キリストに従っているのだが、弟子たちとは一線画している人間がいて、それがけしからないと弟子たちは言っている。「自分たちよりも他に偉い者がいるか、いないだろう。それなのに我々を無視するとは何事か」・・・。さらに51節からのところでは、エルサレムに向かうイエス様をサマリアの人々を歓迎しなかったことに腹を立てたヤコブとヨハネが、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼそうかと言って、イエス様に戒められている。ここでも問題になるのは、自分たちの偉さ。自分たちはイエス様に裁きを進言できるほどの立場にいる。その我々の言うことを聞かないならば、神の正義の名においてお前たちを滅ぼすことなどたやすいことなのだと言うわけだ。

 イエス様は、弟子たちのそういう言葉の端々に現れてくる「自分たちの偉さを問う」思いを見抜いたところで、一人の子供を御自分のそばに立たせて言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」イエス様の時代、子どもというのは弱くて、欠点があり、手のかかる、はためから見て最も価値が見出せない存在とされていた。言わば、一番小さい者、一番低い者、一番うしろにいる者である。なぜ、そのような者を受け入れることが、主を受け入れることになるのか。主が彼らよりももっと低く、もっと小さく、もっと価値のない者となって、彼らの下に、そして一番うしろに身を置いてくださっているからだ。この前の箇所で、イエス様が2度の十字架と復活の予告をなさっている。十字架につけられて死ぬというのは、最悪の犯罪人として殺されることである。「お前なんか、生きていたって何の価値もない。むしろいないほうが世のためになる」と、烙印を押されること。そうやってキリストは誰よりも小さく、誰よりも低いところに、誰よりもうしろに身を置かれる。あの十字架の上で。なぜか。落ちこぼれる者がないように、一番弱い者が取り残されることがないように、小さい者が目にとまらなかったということがないように、互いの価値を競い合う罪とそこから生まれる痛みを取り除くため、そのためにキリストは一番低く、一番小さく、一番うしろに立たれる。一番下に救い主キリストが、すべての者を支えるお方として、すべての重荷を担う方としていてくださる。どんな弱い人でも遅れて主よりも後になることはない。主が一番うしろに立っていてくださる。どんな罪人でも主よりも下に転落することはあり得ない。救い主が一番下にいて支えていてくださる。私たちの足元には十字架がある。皆そこから担われている。神の国はそうやって成り立っている。だから神の国の目線は上ではなく下へと向かう。キリストを土台として下から上へ築き上げられて行く、命が支えられる形、それが神の国であり、教会。ならば神の国の働きを私たちがするということは、絶えず目線を下へと向ける戦いをするという以外ではないだろう。その戦いの中で、傲慢な自分が砕かれる経験をしながら、キリストが私を受け入れてくださっているという恵みが段々深く分かってくる。そのことが私たちの深い喜びなのだ。