2012年2月12日日曜日

2012年2月12日 説教要旨

 現実を超えた現実に生きる 」  ルカ9章28節~36節

 震災ボランティアに一緒に行った兄弟の証。職場の人事異動で移った職場が合わず、ノイローゼになり、しばらく休職することになったそうだ。たまたま職場の同僚がキリスト者で教会を紹介してくれた。教会に行き、自分でも聖書をコツコツ読み始めた。最初から読み始めたので、イエス・キリストが登場するまですごい時間がかかったと言う。彼は休職中にお遍路さんになって、四国88か所の霊場を全部歩いたそうだ。お遍路をしながら信仰のことを考え、聖書の真理を思い巡らし、ちゃんとクリスチャンになった。お遍路さんは白装束で旅をし、その衣が汚れるにつれて、反対にその人の心は浄化されていくのだという。同行二人(どうぎょうににん)、お遍路さんは一人で巡礼しても、弘法大師(空海)と一緒に巡礼しているのだとも言う。だが、彼は弘法大師とではなく、主イエス様と歩いていたのだと言う。

私たちは、そういう鮮やかなイエス様との出会いの証を聞くのが好きだ。そして自分もそういう鮮やかなイエス様との出会いがあったらいいのに・・・と思う。このときのペトロは、そのような鮮やかな主との出会いの体験をした。思いもよらぬイエス様の十字架の予告を聞き、ペトロたちはどんな思いでこの8日間を過ごしたことだろう。戸惑い、失意、落胆・・・そんな矢先、イエス様はペトロたち3人の弟子を連れて高い山に登られる。そして弟子たちの目の前で、イエス様のお姿が変わった。衣は真っ白に輝いた。弟子たちの心を映し出しているかのような、その夜の闇を切り裂くように、突然、イエス様のお姿は光り、輝き始めた(ルカはこの出来事が夜起こったことを示している)。そして、旧約聖書に登場してくる預言者エリヤとモーセが現われ、イエス様の最期について語り合い始めたというのだ。

この出来事に登場するモーセとエリヤは、それぞれ旧約聖書の律法付与者と預言者の代表格あり、2人が登場したというのはまさに旧約聖書そのものがここに現れたと言うこと。その旧約聖書が、救い主キリストは十字架につけられて死ぬこと、それは旧約聖書が預言していたことであって、イエス様の十字架は父なる神の御心に他ならないという確認がなされた。それがこの出来事の意味。ところがペトロはそのようには受け止められなかった。ペトロは、ここにいるのは素晴らしいと言って「仮小屋を3つ建てましょう」と言った。ペトロはこう思ったのだ。イスラエルの人たちが昔、エジプトを脱出して荒野を40年に渡って旅したとき、荒野での住居は簡単に作れる仮小屋だった。彼らはそれぞれの部族ごとに東西南北、どこに仮小屋を建てるか決められていた。そしてその宿営の真ん中には、神の幕屋が必ず据えられた。神の幕屋には神の臨在を示す雲が立ち上り、夜は雲が光り輝いてあたりを照らした。荒野の夜は真っ暗になる。イスラエルの人々は真っ暗な闇の中でその光を仰ぎ、「ああ、神は私たちと共にいてくださる。なんと力強い。明日も頑張って旅を続けよう」と思った。ペトロが建てたいと言った仮小屋は神の幕屋のことであり、この先いかなることが待ち受けているのか、不安の中にあったペトロはかつてのイスラエルの民のように神の臨在に近くにとどまりたいと思ったのである。しかし、イエス様の光はすぐに消えてもとの静けさに戻ってしまった。私たちも礼拝で、あるいは教会の交わりを通して、輝くようなイエス様のお姿に触れる経験をする。イエス様の恵みに触れて望みを頂いた明るい気持ちになる。闇が一気に吹き払われたかのような感じがする。そして家に帰り、自分の生活へと戻って行くと、何かまたそこで闇が戻って来たような感覚を覚えて、寂しい思いになる・・・・。
ペトロの申し出に対してイエス様は何もお応えにならない。好いとも、悪いとも言われない。ただ、天からの声がした。36節「これはわたしの愛する子。これに聞け」。そして、その声が聞こえた時、そこにはイエス様だけがおられた・・・。

 「これに聞け」・・・これに聞いていればよいということ。栄光に光輝く主ではなく、もとの汚れた服を来たイエス様にもどってしまった・・・。そのお姿の主に聞け、そして従っていればよいと言うのである。主の衣は元の汚れたものに戻った。その汚れは、病める人々の前に身をかがめ、いなくなった1匹の羊を探し求める中で汚れたもの、私たちのために父なる神に向かって祈り、ひざをかがめたためについた汚れだろう。そう、イエス様は神の御子の栄光の姿に留まりつづけておられるような方ではなく、どこまでも私たちに近くあろうと、天から降りて来てくださった方なのだ。それゆえにその衣は汚れる。そして最期には十字架の血によって染まってしまうまでに、その衣を汚されるのだ。この方に私たちも聴いていくとき、この方が私たちのために十字架にかかり、死んで、そして復活して私たちと共に今も生きていてくださることを知る。あまりにもつまずき多き、汚れた私たちの姿に近くあろうとされるがゆえに、私たちが気づかないだけなのである。私たちは暗闇の中に戻って行くような生活をしているのではない。光と共に歩んでいるのである。ボランティアの中には、長く不登校を続けている友もいた。その彼を、先のボランティア仲間は心を込めて励ましていた。暗闇ばかりと思える私たちの現実、しかしその現実を超える現実を私たちは生きている。栄光の輝きをもたれている方が、この私たちと共に歩んでくださっているのだから。