2013年3月24日日曜日

聖書日課 3月25日〜3月31日


成瀬教会 <聖書日課>  3月25日~3月31日

3月25日(月)マタイ13章34節~35節
イエス様は群集にたとえを用いて話されました。「 たとえ 」と日本語に訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「 パラボレー 」と言います。英語の「 パラブル 」(たとえ)の語源になった言葉です。「 パラ 」、「 そばに 」という言葉と「 ボレー 」、「 投げる 」という言葉が合わさって出来た言葉で、たとえとはそばに投げる、つまり伝えたいことの「 核心 」そのものに直接触れるのではなく、核心から少し外れたところに触れていると言う意味なのです。この話はどういう意味なのだろうかと関心を持った人は、すぐ近くにある核心に近づこうとするでしょうし、関心を持たなかった人は近づかずに離れて行きます。たとえは、そのように聴き手を「 関心があるかないか 」で、振り分けるという結果を生みます。イエス様の語り方は、私たちにさらなる関心を呼び起こそうとする語り方なのです。関心を持とう。

3月26日(火)マタイ13章44節~46節
畑に隠された宝と高価な真珠を買う商人のたとえは、ともに「 持ち物をすっかり売り払い 」(44節、46節 )、欲しい物を手に入れる点が似ています。人間は、みな良いものを手に入れたいと願っています。生きる上での喜び、幸福感、家族や仲間など・・。しかし、このたとえの登場人物たちは、良いものではなく、最上のものを求めていたのです(46節)。彼らは、最上のものが何かを見抜くことができました。そして最上のものを手に入れるためには、良いものさえ手放す準備もしていたのです。あれもこれもではなく、ただひとつという生き方です。最上のもの、それは天の国(神の支配のこと)です。私たちは最上のもの、すなわち真の宝を求めているのでしょうか、それとも良いものに過ぎないのでしょうか。

3月27日(水)マタイ13章47節~50節
世の終わりにある神の裁きのことを語っているたとえ話です。48節の「 良いもの 」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「 タ・カラ 」という言葉です。日本語の宝と同じ音ですね。これは偶然の一致です。より分けられる基準は、その人が本当に宝を宝として生きてきたか。それとも宝とは言えないものを宝のようにして生きてきてしまったか、ということなのです。お宝鑑定団という番組があります。宝だと思い込んでいた物が、プロが鑑定するとただのガラクタに過ぎなかった・・・ということがよくあります。他人事ではありません。あなたの宝は、何になっているでしょうか。真の目利きである方の鑑定が最後に待っているのです。

3月28日(木)マタイ13章51節~52節
イエス様は弟子たちのことを「 学者 」と呼ばれましたよ。そう、イエス様から学んだあなたは、すでに学者なのです。イエス様から「 天国学 」の学位を授けられたのです。天国学修士(マスター)は、この世界、そしてあなたの日々の生活を神様がご支配されているのだということが分かるようになります。そして「 自分の倉から新しいものと古いものを取り出す 」のです。それは、新約聖書(つまりイエス様の教え)と旧約聖書から、神のご支配がどういうものかを聞き取ることができるということです。いつでも、神の指先をそこに見ることができるのです。しかしそれは「 あなたの指先を見せてください 」という不断の祈りがあってのことだということを忘れないようにしましょう。

3月29日(金)マタイ13章53節~58節
「 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい・・・姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか 」(55節~56節)。イエス様の生い立ちを知っている故郷の人々は、それ以上聴こうとも学ぼうともしませんでした。そのためにイエス様は故郷ではあまり奇跡をなさらなかったと言うのです。私たちはイエス様を「 もう知っている 」つもりになり、求めを失うとき、力をなくします。主に対する求め、飢え渇きの中でだけ、私たちは生き生きと生きることができます。

3月30日(土)マタイ14章1節~12節
14章では、2つの宴席が続きます。ヘロデの誕生を祝う盛大な宴席とイエス様がしつらえたパンと魚の貧しい宴席です(13節~21節)。前者の宴席は、神の言葉を語ったヨハネの首をはねることにおいて、その特質を暴露しており、神の言葉さえ消してしまうようなおごり高ぶった集まりです。もう一方の宴席は、イエス様のもとにしつらえられたイエス様と共に「 天を仰ぐ 」(19節)宴席です。どちらの宴席にも喜びの声が響いていますが、どちらの喜びが真実なものなのでしょうか・・・・。そして、私たちはどちらを求めているのでしょうか・・・・。

3月31日(日)マタイ14章13節~21節
「弟子たちはそのパンを群衆に与えた」(19節)とあります。もし彼らが群集に与えなかったならば、何も起こらなかったのです。弟子たちが受け取ったとき、パンは5つ、魚は2匹のままです。それを群集に手渡し始めるか、それとも立ち尽くしたままでいるか。もし食べ物を配り始めて何も起こらず、すぐに底を尽いたら彼らは群集の笑いものになります。群集の中でもらえた人、もらえない人が出て、騒ぎになるかも知れません。わずかなものを大群衆に差し出して行くのは、愚かな行為にしか見えなかったでしょう。しかしその愚かさの中に、キリストに従うがゆえの愚かさの中に、踏み込む決断をしたことによって弟子たちは奇跡に出会うことができたのです。安全を第一に考え、危険を避けるならば私たちは奇跡を失うのです。

2013年3月17日日曜日

2013年3月17日 説教要旨


「 すべてのことが意味を持つ 」 ルカ20章27節~40節

ある哲学者が「愛の最も由々しい敵が憎しみではなく無関心であるように、信仰の最も由々しき敵は退屈なのです」と言っている。なぜ、「生きておられる神様」を信じているにもかかわらず、その信仰が干物のように干からびた、生き生きとしない、退屈な信仰になってしまうのか。我々は真剣に「神は生きておられる」ということを、信仰をもって受け止め直さなくてはならないのではないか・・・と。イエス・キリストが地上の生活をしておられる時に戦われた、その戦いもまた「退屈になった信仰」を巡っての戦いであったと言える。信仰が退屈な生き方を生んでしまう、それは罪なのである。退屈の罪との戦い、退屈な信仰を生き生きとした信仰によみがえらせる、それがイエス様の戦いであったと言うことができるし、言い換えると、イエス様が戦ってくださらなければならないほどに、退屈な信仰から脱出することは我々には容易ではないということ。今朝はルカ20章27節以下を読む。復活を信じていないサドカイ派の人々が議論をしかけて来た。これは議論のための議論であって、それこそ退屈な話である。サドカイ派の人たちは、こういうことを真剣に考えるほどに、退屈な信仰になってしまっていたのだ。サドカイ派は、ファリサイ派と異なり、死者の復活を信じていなかったが、イエス様も復活を語っておられると聞き、イエス様を論破しようとやって来たのである。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」というモーセの律法の掟を引き合いに、もし7人兄弟がいて、7人とも子を残さなかった場合、全員の妻になった女は、復活の時、誰の妻になるのか、というのである。神の掟は、一人の女性が同時に何人もの夫を持つことをよしとしていない以上、復活があるなら神の掟の中に矛盾が生じてしまうではないかと言う理屈である。これはただ相手を負かしてやっつけるという目的だけの、いわば議論のための議論に過ぎない。筋は通っているがそこには夫を失った妻に対する同上はひとかけらもない。一体私たちの生活において、ただ神の掟にそう書かれているからという理由で、まるで子どもを生むための機械のように次から次へと夫を取り替えてしまうことがあり得るだろうか。そういう想定をしてみせること事態が極めて非人間的だし、およそ現実離れした頭だけの信仰、生き生きとしていない、言わば干物のように干からびた退屈極まりない信仰の姿である。

イエス様は彼らに対して、復活はあるのだと言うことを聖書から論証なさる。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(37節、38節)。神は死んだ者の神ではない。生きている者の神、アブラハムも、イサクも、ヤコブも確かに死んだのだが、神は死んだ者を死んだままにしておかれない。神はいつでも生きている者の神であり続ける方だから、たとえ死んだ者であっても、神はそれをご自身の前に復活させる。生きた者とされる。神の激しい愛が死んだ者をそのまま放っておかないのだ。「私が生きているので、あなたがたも生きることになる。すべてのものは神によって生きる」。復活を保証するにはそれで十分ではないか。イエス様はそう言われるのである。これは何と、慰めと恵みに満ちた宣言であろうか。神が生きておられる限り、すべてのものが生きるようになる。死んだ者も復活する。いや、これは復活だけにとどまらない。神が生きておられる限り、神の御前にある「すべてのこと」が命を帯びてくるようになる。意味のあるものになっていると言うのである。神に愛でられている私たちにとって、無駄なことなど一切ないのだ。つまらない雑用も、無駄と思える努力も、空しく過ぎたと思える時間も、踏みにじられたあなたの愛の業も、役に立たなかった準備も、報いられなかった忍耐も、はかなくついえた希望も、皆、生きるのだ。孤独も、病気も、不幸も、悩みも、痛みも生きる。神の御前には、無駄なことなどまったく存在しないのである。皆生きる。すべてがいのちの輝きを帯び、意味あるものとして輝き始める。私たちの神はそのようなことをなさる方なのだ。私たちがこれは何の意味も無い空しいことではないかと思う、そのことを神は意味あるものとしてくださる。そのことが分かると、信仰は生き生きとした信仰にならざるを得なくなる。退屈な議論のための議論を繰り返す、頭だけの信仰に堕してしまうことなんか起こり得ない。すべてが生きるのだから。今、子どもが生まれない夫婦のために、別の女性のお腹を借りて、子どもが与えられるようにする医療技術が生まれた。また、iPS細胞は医療技術における夢の扉を開きつつある。大いなる期待を込めて苦しみに耐え、待ち続けている人たちもいる。だが倫理的な面からの問題も提起されている。どこまで人間の願いを貫き通してよいのか、踏みとどまるべき地点があるのではないか。それは「すべてのことは神によって生きる」という御言葉とどのように向き合っているか、というところで自ずと答えが出て来るはずだ。イエス様はサドカイ派の人たちを、そして私たちを、退屈な頭だけの信仰から「今も生きて働いておられる神」を信じるところに生まれる「生き生きとした信仰」へと招いておられる。