2013年3月17日日曜日

2013年3月17日 説教要旨


「 すべてのことが意味を持つ 」 ルカ20章27節~40節

ある哲学者が「愛の最も由々しい敵が憎しみではなく無関心であるように、信仰の最も由々しき敵は退屈なのです」と言っている。なぜ、「生きておられる神様」を信じているにもかかわらず、その信仰が干物のように干からびた、生き生きとしない、退屈な信仰になってしまうのか。我々は真剣に「神は生きておられる」ということを、信仰をもって受け止め直さなくてはならないのではないか・・・と。イエス・キリストが地上の生活をしておられる時に戦われた、その戦いもまた「退屈になった信仰」を巡っての戦いであったと言える。信仰が退屈な生き方を生んでしまう、それは罪なのである。退屈の罪との戦い、退屈な信仰を生き生きとした信仰によみがえらせる、それがイエス様の戦いであったと言うことができるし、言い換えると、イエス様が戦ってくださらなければならないほどに、退屈な信仰から脱出することは我々には容易ではないということ。今朝はルカ20章27節以下を読む。復活を信じていないサドカイ派の人々が議論をしかけて来た。これは議論のための議論であって、それこそ退屈な話である。サドカイ派の人たちは、こういうことを真剣に考えるほどに、退屈な信仰になってしまっていたのだ。サドカイ派は、ファリサイ派と異なり、死者の復活を信じていなかったが、イエス様も復活を語っておられると聞き、イエス様を論破しようとやって来たのである。「ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない」というモーセの律法の掟を引き合いに、もし7人兄弟がいて、7人とも子を残さなかった場合、全員の妻になった女は、復活の時、誰の妻になるのか、というのである。神の掟は、一人の女性が同時に何人もの夫を持つことをよしとしていない以上、復活があるなら神の掟の中に矛盾が生じてしまうではないかと言う理屈である。これはただ相手を負かしてやっつけるという目的だけの、いわば議論のための議論に過ぎない。筋は通っているがそこには夫を失った妻に対する同上はひとかけらもない。一体私たちの生活において、ただ神の掟にそう書かれているからという理由で、まるで子どもを生むための機械のように次から次へと夫を取り替えてしまうことがあり得るだろうか。そういう想定をしてみせること事態が極めて非人間的だし、およそ現実離れした頭だけの信仰、生き生きとしていない、言わば干物のように干からびた退屈極まりない信仰の姿である。

イエス様は彼らに対して、復活はあるのだと言うことを聖書から論証なさる。「死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(37節、38節)。神は死んだ者の神ではない。生きている者の神、アブラハムも、イサクも、ヤコブも確かに死んだのだが、神は死んだ者を死んだままにしておかれない。神はいつでも生きている者の神であり続ける方だから、たとえ死んだ者であっても、神はそれをご自身の前に復活させる。生きた者とされる。神の激しい愛が死んだ者をそのまま放っておかないのだ。「私が生きているので、あなたがたも生きることになる。すべてのものは神によって生きる」。復活を保証するにはそれで十分ではないか。イエス様はそう言われるのである。これは何と、慰めと恵みに満ちた宣言であろうか。神が生きておられる限り、すべてのものが生きるようになる。死んだ者も復活する。いや、これは復活だけにとどまらない。神が生きておられる限り、神の御前にある「すべてのこと」が命を帯びてくるようになる。意味のあるものになっていると言うのである。神に愛でられている私たちにとって、無駄なことなど一切ないのだ。つまらない雑用も、無駄と思える努力も、空しく過ぎたと思える時間も、踏みにじられたあなたの愛の業も、役に立たなかった準備も、報いられなかった忍耐も、はかなくついえた希望も、皆、生きるのだ。孤独も、病気も、不幸も、悩みも、痛みも生きる。神の御前には、無駄なことなどまったく存在しないのである。皆生きる。すべてがいのちの輝きを帯び、意味あるものとして輝き始める。私たちの神はそのようなことをなさる方なのだ。私たちがこれは何の意味も無い空しいことではないかと思う、そのことを神は意味あるものとしてくださる。そのことが分かると、信仰は生き生きとした信仰にならざるを得なくなる。退屈な議論のための議論を繰り返す、頭だけの信仰に堕してしまうことなんか起こり得ない。すべてが生きるのだから。今、子どもが生まれない夫婦のために、別の女性のお腹を借りて、子どもが与えられるようにする医療技術が生まれた。また、iPS細胞は医療技術における夢の扉を開きつつある。大いなる期待を込めて苦しみに耐え、待ち続けている人たちもいる。だが倫理的な面からの問題も提起されている。どこまで人間の願いを貫き通してよいのか、踏みとどまるべき地点があるのではないか。それは「すべてのことは神によって生きる」という御言葉とどのように向き合っているか、というところで自ずと答えが出て来るはずだ。イエス様はサドカイ派の人たちを、そして私たちを、退屈な頭だけの信仰から「今も生きて働いておられる神」を信じるところに生まれる「生き生きとした信仰」へと招いておられる。