2012年4月29日日曜日

2012年4月29日 説教要旨


主のおもてなしを受けよ 」 ルカ10章38節~42節 

フェルメールというオランダの画家が、10章38節以下の小さな物語を絵に描いている。彼にとって唯一の宗教画がと言われているもので、マルタを諭されるイエス様のまなざしが何とも印象的な絵である。姉のマルタがイエス様一行を自宅へと招き入れた。「さあ、お食事の準備を致しますから、しばらくそこに腰掛けておくつろぎください」、そう言って彼女は台所へと姿を消す。そのとき、妹のマリアはマルタを追って台所に行くわけでもなく、そのままイエス様の足元に座ってその言葉に耳を傾けて始めたのである。マルタはひとりで料理を作り、お皿を並べ、盛り付けをする。おもてなしのために一生懸命に働いている。しかし、どうして妹は手伝いに来ないのか・・・ついにたまりかねて、マルタは戻って来てイエス様に言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」。するとイエス様は「マルタよ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」答えられた。小さな家の一室で起きた、よくありそうな出来事だが、この出来事はマルタとマリアの小さな家の中に留まることなく、今もこうして世界中の人たちに読まれ、人々の胸に迫ってくる、「必要なことはただ一つだけである」と・・・・。

40節の「マルタは、いろいろのもてなしのためにせわしく立ち働いていた」の「せわしく立ち働いていた」という言葉は、原文ギリシャ語では周りに引っ張られて、中心から引き離された状態を言う言葉が使われている。マルタには、大事な中心となるべきことがあるのに、この時のマルタは周りに引っ張られて、その中心から引き離されていたと言うのである。イエス様たちを接待しなくてはいけない。お皿はこれとこれで、料理はこれとこれ。いろんなことに思い悩み、いろんなことに引っ張られ、その結果、マルタは大事な中心となる事から引き離されていたのだ。そしてマルタは「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と、マリアだけでなく、妹に何も言ってくれないイエス様に対してまで批判的奈言葉を口にするようになってしまったのである。私だけが働いている・・・マルタは、そう思い込んでいるが、果たしてここで働いているのは本当にマルタだけだったのか・・・。実は、イエス様もこの時、働いておられたのではないか。御言葉を聞かせてくださるというおもてなしの働きをイエス様もしておられたのではないか・・・。礼拝のことを英語でサーヴィスと言う。礼拝は、私たちが主に仕えるだけでなく、主が私たちに御言葉のおもてなしをもって仕えてくださっているときでもあるのだ。マルタにとって、中心にあるべき事柄というのは、このイエス様おもてなしを、まず自分が受けること。イエス様の御言葉のサーヴィスを受けることが、中心にあるべき事であったのだ。私たちもその中心にあるべき事から、周辺的なことに心を奪われて、そのことに没頭して、周辺へと引き離されていくとき、マリアのようにただ忙しいだけの人間になってしまう。せっかく一生懸命、善きことのために働いているのだけれども、そこには充実感よりも、むしろ不平や不満、他者への批判、怒りなどに心を占められてしまう・・・。イエス様はそういうマルタに言われた。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。イエス様は2度、マルタの名前を呼ばれた。聖書の中で、2度、繰り返して名前が呼ばれるというのは、そこには愛といたわりが込められている場合である。イエス様は、マルタのことを決して、突き放してはおられない。マルタの労苦をいたわりながら、「必要なことはただ一つだよ。マリアはその良い方を選んだんだよ」とマルタを諭しておられる。フェルメールは、このイエス様のいたわりに満ちた愛の心を、そのまなざしに込めて描いたのだと思う。私たちがいろいろなことで忙しくして、心の中に他者への批判、不満、不平、そして自分はこんなに一生懸命なのに、誰も私の働きを認めて評価してくれない・・・そうやって苦しみ始めるとき、イエス様はこのマルタに語られたように、私たちにも「まず私のもてなしを受けなさい」と、私たちを招き、そこから解放しようと働いてくださるのだ。そういう方が私たちにはいるのである。

マザー・テレサは、取材や見学のために修道院を訪ねて来る人たちに決まってこう言ったそうである。「皆さん、私たちの活動ばかり見ないで、朝4時からの沈黙の時も見て行ってくださいね」と。シスターたちにとって、朝の4時からの沈黙のときとは、イエス様のおもてなしを受ける時なのである。そこを理解しないと、私たちの働きは分からないと言うわけである。そのマザーが「沈黙は祈りを生み出し、祈りは信仰を生み出し、信仰は愛を生み出し、そして愛は奉仕を生み出し、奉仕は平和を生み出す」という言葉を残している。東日本大震災で被災したキリスト者たちは、震災直後の日曜日の礼拝に、なぜこんなことが・・・と問うのではなく、「ただあなたの御言葉を聞かせてください」と、主の御言葉のおもてなしを受けることを切実に求めていたと言う。その姿は、人が生きようとするうえで、本当になくてはならないものが何であるかを証している姿なのだ。

2012年4月22日日曜日

2012年4月22日 説教要旨


あなたも行って同じようにしなさい 」 ルカ10:25~37

ひとりの律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と主に尋ねた。最近評判の高いイエスという男が、どれだけ神の掟をわきまえているかを試そうとしたのである。永遠の命とは、私たちが肉体の死を迎えたあと、なおそれを超えて生きる命のことであり、神が与えてくださる命だ。そのような命に結びついていく生き方とは、どんな生き方かを彼は問うたのである。しかし主は「あなたはどう思うか」と反対に問い返した。彼は即座に「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。主は、彼がそれを実行していないのを見抜き、そう言われたのだ。だから彼は自分を正当化しようとして「では、わたしの隣人とはだれですか」と言い返したのである。彼は隣人に対して境界線を設けて、愛せる隣人、愛するに値する隣人は愛するけれども、自分が愛する価値はないと思った隣人は隣人とも呼べないと考えていたのである。イエス様は、隣人を愛することにそのような境界線を設ける彼の姿勢を問うて、このたとえを語られたのである。

エリコ下って行く途中、半殺しの状態で人が倒れている。その旅人に近づくということは、自分の予定を変更することを意味する。祭司とレビ人は向こう側を通って行った。2人は宗教家だが、傷ついた人を見て、これは好ましい隣人ではないと判断した。そしてこんな人のために時間を取られてはダメだ。この人に関わったら自分の予定が変えられてしまうと思って、通り過ぎた。傷ついて倒れている隣人がそこにいる。そういう隣人と出会っていない人はひとりもいない。自分の人生の道を歩いてきて、倒れて苦しんでいる隣人と一切、出会わずに歩ける人は、おそらくいない。そういう場面に出くわして、「ああ、この道は悪かったのかなあ」と思ったり、舌打ちをして「なんでこんなときに・・・別の時だったら」と言いながら、向こう側を通り過ぎるということがあるだろう。しかしそこにサマリア人がやって来た。ユダヤ人と他民族との混血で、ヤダヤ人からはひどく軽蔑され、見下げられていた人たちだ。そのサマリア人は倒れていた人を見て、憐れに思い近づいたために自分の予定を変更させられた。急にこのサマリア人にとって、人生は重たいものになった。この人と関わる事によって・・・。主はこのたとえ話を通して、私たちの人生にひとつの問いを出しておられる。一体、誰にも妨げられない人生、誰にも予定を変更されられない生き方、快適な人生、そういうものが本当に私たちのあるべき人生なのか・・・そして、そういう人生こそが、永遠の命につながらない人生なのではないのかと・・・。主は「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問われた。快く愛せる隣人は誰かと、律法の専門家は問うた。しかし好ましい隣人と好ましくない隣人がいるわけではない。大事なことは「隣人になる」という生き方なのだと主は言われる。
隣人というのは、近づくことによってはっきりと見えてくる。近づかなければある程度の距離を保っているならば、単なるそこにいる人として普通に付き合うこともできる。しかし隣人というのは近づけば、近づくほど傷ついているのが分かってくる、そういう存在。そして近づくことによって、その傷が自分自身の重荷になるという経験をさせられる。重荷にならざるを得ないのである。しかしそれがイエス・キリストの答えである。どうすれば永遠の命につながることができるのか・・・。それは、隣人になるという生き方、すなわち隣人にかかわるという生き方、回り道をするという生き方、重たいものを自分の中に背負い込むという生き方、そういう生き方と、永遠の命とは深くつながっているのだと言われる。私たちは隣人なき人生というものを夢見る。傷を負っていない隣人、重荷を持った隣人と関わらなければならない人生ではなくて、もっとスムーズに歩ける人生はなかったかと私たちは考える。しかしそんな人生、もしあったとしても、それはまさに永遠の命につながらない生き方、命なのだということを、主はこのたとえを通して語っておられる。

このサマリア人とは、イエス・キリストのことであると解釈されてきた。そして倒れている人は、私たち人間・・・。私たちは罪に傷つき、瀕死の重傷にある。キリストはその私たちを見て、近づき、私たちのもとに立ち止まってくださった。それが私たちの救いだ。キリストが通り過ぎないで私たちとかかわってくださった。この世に来られて、私たちを自分の背中に背負って、私たちを宿屋へと連れて行ってくださった・・・。あなたも隣人になりなさいというイエス様のお言葉。それはまさにイエス・キリストが私たちにしてくださったことを指している。あなたが主にしていただいたように、あなたも同じようにしなさい・・・。隣人になるという道を選んでいきなさい。目の前にある重い現実。それは決して無意味なものではない。私たちが永遠の命へと結びついていくために神が与えられた現実なのだ。最後にもうひとつ。サマリア人は、自分のできることをしただけである。彼は自宅へ連れて行かず、宿屋に連れて行った。そう、彼は大きく背伸びするのでもなく、身の丈に合ったできることをしたに過ぎないのである。