2014年6月1日日曜日


先週の説教要旨 「 誰が主の言葉を聞くか 」 使徒言行録13章42節~52節 
 この箇所には、先週読んだパウロの説教を聴いた人たちが、どういう応答をしたかが記されている。その応答は2種類、受容と拒絶である。42節から44節には、受容した人たちの様子が記されている。会堂での集会が終わった。パウロの話に心を動かされた人たちは、集会が終わった後もパウロたちと語り合った。パウロは彼ら似神の恵みの下に生き続けるように勧めた。そして次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。これらは、福音の受容という肯定的な応答である。しかし、皆が喜んで聞いたわけではない。全く反対の応答、すなわち福音を拒絶した人たちもいた(45節、50節)。それでパウロは、ユダヤ人への伝道から異邦人への伝道へと移って行く。それは主が命じておられる通りであると言って・・・。使徒言行録は、これらの福音の受容と拒絶の姿を、実に驚くべき言葉で言い表している。「 そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った 」(48節)。彼らが信仰に入ったのは、救いに入るように予め神に定められていたからだと・・・。これは「 予定 」と言われる教えのひとつであって、私たちのように長老改革派教会に属する教会は、この「 予定 」という教えを大切にする。この箇所は、そのひとつの典拠とされる箇所なのである。そうとすれば、福音を拒絶した人たちに関しては、救いに定められていなかったからだと言うかと思うと、そうは言わない。「 あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている 」(46節)。この「 値しない者にしている 」は、原文ギリシャ語では「 値しないものであると言う判決を自分で自分に下した 」となっている。つまり、そっちを選んだのは自分の責任だと言っているのである。信じた者に関しては、神が救われるように予め選んでおられたからだと言い、他方拒絶した者に関しては、自分自身の責任でそっちを選んだのであると、聖書は言うのである。こういう言い方をされると、私たちの頭は混乱する。論理的に整理がつかないし、感情的にもすっきりしない。しかし聖書は、神の予定と人間の自己責任という、相反する事柄を並べて、両方とも真理として提示するのである。
 この予定の教えは、すべてのキリスト教会が受け入れているわけではないが、長老改革派の教会は、この神の予定という真理と、人間の責任という真理を、そのまま両方受け入れる。それを両立主義と言う。人の理性では相反している真理(二律背反とも言う)を両方とも、アーメンと言って受け入れる。この両立主義は、キリスト教信仰の核心部分においても、求められる信仰の姿勢なのである。神は三位一体であるという真理、キリストは全き神であると同時に全き人でもあったとする真理、いずれも両立主義に立たなければ受け入れることはできない真理である。聖書は、その核心部分において、人間の理性を脇においてでも、神が主張されていることならば、それを正しいとして受け入れます、と言う姿勢を人に求めるのである。
  予定の教えに関しては、長い教会の歴史において議論が繰り返されてきており、その議論は今も続いている。予定の教えに反発を感じるのは、選ばれる人がいるのは不公平だと感じるからであろう。しかし注意しないといけないのは、聖書は二重の予定を教えてはいないことである。救われる人が決まっていて、滅びる人も決まっているとは、聖書は言わない。救いの道を求めないのはあくまでも人間の自己責任によるのである。滅びに予定されている人がいるという教えは聖書の中にはない。それどころか、誰でも私のところに来なさいというイエス様の招きの言葉が記されているではないか(マタイ11章)。そこに人間の側の責任を抹殺する、消し去るような教えは聖書にないのである。
 予定の教えは、私たちに慰めと励ましをもたらす。年を重ねて、自分の思うように信仰生活を送っていけなくなることがある。こんなんじゃ自分はもう信じているとは言えないんじゃないか・・・そこには悲しみ、痛みに共感しつつ、私たちは「 大丈夫。あなたの救いは神が定めておられることですから、あなたの今の状況によって、救いが取り消されることはないのですよ」と言ってあげられるし、信じているのだけれども、周りの状況が整わなくて・・・という人にも、「 神が定めておられるのだから、必ずその時は来ますよ 」と言ってあげられるのである。伝道においても、予定の教えは私たちに励ましと勇気を与える。私たちは、自分たちが一生懸命伝道して、自分たちの力で回心する人を生み出していくのだ、それができるかどうかは、私たちの伝道力にかかっているのだと言われたら、それはものすごいプレッシャーである。だか、神は予め救われる人を用意していてくださり、私たちは「 イエス様の十字架と復活 」、福音という「 合い言葉 」をそこに投げ込んであげれば、定められていた人たちは必ずそれに反応し、肯定的に応答するのである。伝道とはそういうことなのだと言われたら、私たちは過剰な責任感から解放されるであろう。その時、私たちの責任は、正しくキリストの福音を語るという点に集約される。世の人々には愚かに聞こえる十字架の言葉(Ⅰコリント1章18節)を臆せず、大胆に語れば、それで良いのである。誰が主の言葉を聞くか・・・、神は確かにその言葉を聞く人たちを用意してくださっているのだ。  (2014年5月25日)