2014年5月4日日曜日


先週の説教要旨 「 神の真実に励まされ 」 使徒言行録12章1節~19節 
 使徒言行録を読み続けているが、使徒言行録に描かれている教会の姿というのは、何よりも祈る群れである。ペンテコステの日に聖霊が降る、そのときも祈るために集まっていたところに聖霊がくだった。ペトロが異邦人伝道へのきっかけとなった幻を見たのも、彼が祈っているときだった。そのように、使徒言行録は教会というのは何よりも祈る群れであることを繰り返し伝えて、その祈りから聖霊の導きによる展開が生まれることを語っている。今朝、与えられている使徒言行録第12章も祈る群れとしての教会の姿が描かれている(1節~5節)。

 エルサレムの教会はすでに、ステファノという大切な指導者を失っていたが、ここでは続いてヤコブの殉教が伝えられている。ヘロデ王が教会に対する迫害を始め、とうとう自分たちの大切な指導者ヤコブを殺してしまった。ヘロデ王は、このことがキリスト者に敵意を持っているユダヤ人たちが喜んだのを見るや、王はいい気になって、教会の中心的指導者であったペトロをも捕らえて牢に入れてしまった。そこで教会の人たちは、集まってペトロが助けられるようにと、祈りを始めた。それは「 熱心な祈り 」であったと言われている。集まった人たちは、ヤコブが殺され、その上、ペトロまでもが殺されてしまったら、もうお手上げだ。こうやって相次いで中心的指導者を失うようでは、我々は立ち行かなくなると、不安を覚えた。教会は、いつもそうやって追い詰められる。教会だけではない。教会に生きる信仰者ひとりひとりも、自分の生活の中で、追い詰められるという経験をする。しかし、追い詰められるという経験は決して悲観的であるだけではない。なぜなら、私たちは追い詰められたら、祈らざるを得なくなるからだ。自分はまだ追い詰められていない、まだ何とかなると思っているところでは人はなかなか祈りに向かわないものである。自分の力で何とか乗り越えようと動くもの。しかしもう自分の力ではダメと思ったときには、やはり祈らざるを得なくなる。だから、追い詰められるというのは、神によって道を開いていただく、その引き金ともなるのである。

 10節のところに、ペトロが救出されたときの様子が書かれている。教会の人々の切羽詰った祈りに答え、神は天使を送り、ペトロを牢から救い出してくださった。 ペトロは、最初自分は幻を見ているのだと思っていたが、実際に街に通じる鉄門が、ひとりで開いて、そこを進んで行った時、天使が離れてペトロは我に返って、「 今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ 」と言った。鉄門がひとりでに開く・・・これが祈りに対する神からの答えであった。鉄門は、元来、町を守るために非常に頑丈に作られていた。押しても引いても、ビクともしないようながっしりした門。その門を、神が祈りに対する応答として開いてくださった。私たちの人生にもそのような経験があるだろう。どうしても動かない頑丈な門のようなものにふさがれる経験。行き詰ってしまってどうにもならない。進退極まる経験・・・。ペトロは、自分のために教会の人たちが祈っている母マリアの家に一目散に向かった。その途中、ペトロは「 今、初めて本当のことが分かった 」と言った。私たちにおいても、人生の鉄門が開くときがある。何をしても開かなかった門が、突然、開く。あなたの鉄門、それは何であろうか・・・。それはあなたが自分の力ではビクともしないと感じているもの、それはあなたが、これはおそらく無理だろうとあきらめかけているようなことである。しかしそれでいて、祈らずにおれないことなのである。ある人にとって、それは家族の救いであるかも知れない。ある人にとっては、それは健康上のこと、あるいは経済的なこと、家族のことであるかも知れない。しかしその鉄門がひとりで開くときがあるのだ。私たちもペトロのように、「 今、はじめて本当のことが分かった 」と言えるときが来る。しかしそれは、私たちの祈りを引き金としてなのである。

ペトロ救出の引き金となった祈りを聖書は「 熱心な祈り 」であったと伝えている。だが教会の人たちは「 この祈りは聞かれる 」という強い確信をどうやら持ってはいなかったようである。ペトロが戻って来たことを知ったロデは、そのことを祈っている人たちに伝えたが、彼らは「 あなたは気が変になっているのだ 」と言った。ある者は、ペトロを守る天使だろうとさえ言った。当時の人々には、ひとりひとりに天使が守護のためについていると信じていた。私たちの言葉で言えば、守護霊、幽霊である。残念なことに、教会の人々は祈りに応えてペトロが救出されたのだと信じるよりも、幽霊を見たのだと信じることの方がより現実的に思えというのである。教会が熱心に祈っているようでありながら、実際にはその祈りが聞かれるという確信を失ってしまっている。しかしそこで私たちを慰めるのは、そういう一番深いところでは、確かな思いを持っていなかったように思われる教会の祈りに、神が応えてくださっているということである。無理かなと、あきらめの心に揺さぶられながらも、それでも祈らないわけには行かなかった。まさかと思いつつも、祈り続けるより他なかった。その祈りを、聖書は熱心な祈りであり、その祈りに神が耳を傾けて聞いていてくださっている。これぞ神の真実。(2014年4月27日)