2013年2月17日日曜日

聖書日課 2月18日〜24日


成瀬教会 <聖書日課>  2月18日~24日

2月18日(月)マタイ8章1節~4節
ここに登場する重い皮膚病の人は、主に対する深い信仰を言い表しています。イエス様の恵みの意志に対する深い徹底的な信頼です。つまり、主の御心が自分の思いと違っていたらどうしよう、そういう自分の疑いも迷いもすべてひっくるめて主に委ねて、御心のもとに立とうとする信仰の姿勢です。御心についての自分の判断を捨てています。そうでなければ、御心のままにという祈りそのものもが出てこないし、御心のままに癒してくださいという祈りも生まれてこないのです。主は、この病人に手を触れ、癒されました。イエス様の恵みの御心を表して下さいました。イエス様は「 あなたを愛するのだ 」という強い意志をお持ちなのですよ。

2月19日(火)マタイ8章5節~13節
 ローマの兵士である百卒長は権威の下にある者らしく、イエス様の御言葉の権威/力への信頼を表明し、イエス様からは驚きをもって「 これほどの信仰を見たことがない 」と言われました。ある人は「 信仰を持つとは、ところを移すことだ。自分のいるところをこちらからあちらへと換えることだ 」と言いました。この百卒長は、イエス様の恵みの権威の中に、自分の立つところを移したのです。私たちは今、どこに立っているでしょうか・・・。聖書の御言葉をいただくとき、「 ただ一言おっしゃってください。それで十分です 」と、イエス様の恵みの権威に従うところに身を移した上で、御言葉を聞きたいですね。従おうという姿勢を持たないままに、御言葉を聞いても、それに意味はありません。

2月20日(水)マタイ8章14節~17節
「 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた 」(16節)。昔、『 エクソシスト 』という恐ろしい映画を見ました。エクスシストは悪魔祓いをする人のことで、単に聖書の言葉を語って悪魔と戦うのではなく、その存在/命を賭けて悪魔と戦っていました。イエス様のお姿から聞こえてくること、それは「 存在のかかった言葉こそが人を癒し、救うのであって、責任を負わない言葉は、ただ人を傷つけてしまうだけですよ 」と言うことです。あなたの語る言葉が存在のかかった言葉であるように。

2月21日(木)マタイ8章18節~22節
「 狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない 」(20節)。イエス様のご生涯は安住の地がない、そういうご生涯でした。それは他者のために生きられたからです。他者のために多くの時間を費やされ、他者のためにいろいろなところへと引き回されました。私たちがイエス様の真似をすることは簡単なことではありません。しかし、このことは忘れないようにしましょう。他者を助けるためには、自分の何かが犠牲にならなければならないということです。誰からも損なわれることがない人生というのは、平穏ですが、何の意味も残さない人生ですよと、聖書は告げています。今日、あなたにできる小さなことを捧げよう。

2月22日(金)マタイ8章23節~27節
イエス様は風を叱りつけられました。すると風は言うことを聞いたのです。現代人に伝道するには、このような聖書の物語はかえって入信の妨げになってしまうのかも知れません。しかし、聖書を書き記した人たちは、これを正面から受け入れることこそ、入信への道であると信じて疑わなかったのです。彼らは人間の理性では理解できないものを謙遜に承認する姿勢が、信仰に必要不可欠であると信じていたのです。自分の理性的判断に固執するのではなく、神であるイエス様ならばできると、信じてみましょう。「 いったい、この方はどういう方なのだろう 」(27節)という驚きが、必ず、あなた自身の体験になりますよ。

2月23日(土)マタイ8章28節~34節
「 イエスが、『 行け 』と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った 」(32節)。悪霊に取りつかれた人から悪霊が豚の大群に乗り移り、豚が一気に崖を下って湖でおぼれ死ぬという大事件が起きました。こんな大事件を伝える記事なのに、イエス様の言葉は「 行け 」というひと言しか記されていません。この記事はほとんど悪霊に疲れた人たちの自作自演と言うか、自分で勝手に騒いで勝手に混乱している感じです。私たちもいろいろな出来事に振り回され、混乱し、この人たちのように叫び、わめいているのかも知れません。その混乱を沈めるのはただひとつ、イエス様の一言なのです。あなたの生活にイエス様のひと言を響かせましょう。いろいろなことで混乱してしまっているあなたも、その混乱から解放されます。

2月24日(日)マタイ9章1節~8節
中風の人を床に寝かせたまま、イエス様のもとに連れてきた人たちがいます。彼らは中風の人の家族でしょうか。それともお友達でしょうか。イエス様は中風の人を癒されましたが、中風の人の信仰のゆえにではなく、彼を連れてきた人々の信仰を見て、彼を癒されたのです( 2節 )。中風の友のために、自分たちが彼になりかわってでもイエス様を信じ、救っていただきたい。そういうとりなしの姿勢に心打たれますね。ここに成瀬教会の目指す姿がありますよ。教会に生きるあなたは、世の救いのために、世の人々の友となり、必死にとりなす役割をイエス様から期待されています。イエス様はそれに答えて人にはできないような大いなる御業をなしてくださいます。