2013年2月10日日曜日

2013年2月10日 説教要旨


「 神を賛美しつつ生きる 」 ルカ19章28節~40節

今朝の箇所はイエス様がエルサレムの都に入城される箇所である。この出来事は4つの福音書すべてに記されている。影絵作家の藤代清治さんがこの場面を描いておられるが、棕櫚の枝を手にした大群衆がエルサレムの都へ向かって流れるように動いている。「ホサナ」の叫び声が聴こえてきそうな見事な作品である。しかしルカ福音書では、大群集が「ホサナ」と叫びつつ、喜んでイエス様を迎えたというような書き方はしていない。ルカ福音書では、それをしたのは弟子たちであったと語る(37節)。もちろん、群集がその場にいなかったということではない。ルカは群集ではなく弟子たちに焦点を当ててこの出来事を伝えているのである。そこにルカ福音書の際立った特色があり、その特色からメッセージが聞こえてくるのである。他の福音書にはなく、ルカだけが伝えている独特な点は、39節、40節もそうである。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光 」と賛美する弟子たちを叱るように、ファリサイ派の人々がイエス様に求めたのである。イエス様は言い返された。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」と。この言葉はいつくかに解釈されているようだ。ひとつは弟子たちを黙らせれば口をきくはずのない石が弟子たちに代わってこの歌を歌い出すという意味。もうひとつは、この石は神殿を造っている石であって、もし弟子たちの歌を無理やりやめさせようとすれば、エルサレムの都そのものが神殿もろとも、自ら神の裁きを招いて崩れるという意味。いずれにしても、この歌はどうしても歌われなければならない歌なのだ、そうイエス様は言われたのである。弟子たちはこの世にあってこの歌い続けなければならない、いや、歌うように召されているこの歌を。この歌はそういう歌なのである。

 信仰者というのは、神をほめたたえる歌を歌いながら、生きるように召されている。そして、その歌を歌わなくさせようとするあらゆる力とイエス様は戦われる。私たちの教会では、初めて教会に来られた方々の受け皿として聖歌隊が用いられている。そこで願うことは、神を賛美する心を知ってほしいということである。神を賛美する心、それは「弟子たちは、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」(37節)とあるように、「喜び」、喜びから賛美が生まれる。賛美を生む喜びとは、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光 」(38節)と弟子たちが歌っているように、天にある平和、すなわち神の支配が行なわれるところに生まれる平安を携えてイエス様がこの地上に来てくださったこと、そこに生まれる喜びである。この喜びがある限り、私たちはどんな状況に置かれても神を賛美することができる。かつて、ある方の葬儀を行なった際、故人愛唱歌として「ああうれし我が身も、主のものとなりけり」という讃美歌を歌った。故人が葬儀でこれを歌うことを望まれていたのである。しかし式後、親戚の方が「葬儀でああうれしいとは何事か」と、憤慨の言葉を口にされた。信仰のない方には全く理解できないことだと思う。しかし、信仰者というのは、どんなに悲しい場面においても、その一番深いところに喜びがある。天にある平安を携えて来てくださったイエス様がその悲しみの只中にも共にいてくださっているという喜びがあるのである。だから、賛美の歌を歌うことができる。

 先週の礼拝で読んだ「ムナのたとえ」、神様から私たちに託された1ムナとは、神の言葉だと理解した。それをもって人々に神様を紹介するのである。だが、この1ムナを「神を賛美する心」と、とらえることもできるだろう。私たちはいかなるときにも、神を賛美する姿を通して、「共におられる主」を人々に紹介することができる。教会は、この賛美する心を失ってはならないし、この世で歌い続けるように召されているのだ。イエス様もその歌が歌われ続けるようにと、それを妨げようとするあらゆる力と闘ってくださる。弟子たちはほめ歌を歌いながら、自分たちの見たあらゆる奇跡を思い出して喜んでいた。直前の「ろばの子を調達」で経験した奇跡もそのひとつだろう。驚くべき「神の支配」がここに来ている。それをもたらす方が私たちと共におられる。その喜びが弟子たちの賛美を生む。だが、この5日後には弟子たちは賛美するどころか、息を殺して音も立てないようにして身を隠す。イエス様が十字架につけられて殺されてしまうから。上り調子にいた弟子たちは、一気に下り調子に反転し、賛美の声を失う。だが・・・カルバリの丘に天から打ち付けられた1本の十字架は、その最も暗黒な中にも神の支配が貫かれていることを証するものであったことを悟った弟子たちは、それ以降、賛美する姿勢を失わなかった。ルカ福音書は、その最後を「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」という言葉で結んでいる。私たちを取り巻くこの世の現実は、この賛美の言葉を私たちから奪おうとする。だが、そこにも神の支配が貫かれていると信じて忍耐しつつ、賛美の歌を歌い続ける私たちを神様は必ず勝利へと導いてくださる。あなたは今、どのような状況に置かれているだろうか。イエス様は天にある平和を携えて、あなたのその状況にも来てくださっている。賛美を歌わせてくださる。