2012年12月23日日曜日

2012年12月23日 説教要旨


「 御子の生まれし所 」 マタイ2章13節~23節

主がお生まれになった家畜小屋は、ベツレヘムという町にあった。都エルサレムから南に8キロほど下ったところにある町。その名前は、ヘブライ語で「パンの家」という意味である。「わたしはいのちのパンである」と言われた主の言葉を思い起こす。パンの家とはメルヘンチックな感じがするが、ベツレヘムはその名前とは裏腹に数多くの悲しみを見続けてきた町なのである。創世記第35章16節以下、ヤコブの最愛の妻ラケルの出産の場面である。ラケルは自らの命と引き換えに、我が子を出産しようとしていた。ラケルは最初の子、ヨセフを産んだとき、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださるように」と願った。その願いがかなえられようとしている今、ラケルの命は取り去られようとしているのだ。神様の聖なるご意志とは言え、ラケルはこの現実を受け入れることができなかった。ラケルは最後の息を引き取ろうとするときに、我が子にベン・オニ・・・わたしの苦しみの子と命名しようとした。我が子が生涯、若くして死んだ母を記念して、悲しみの中にたたずんで生きるようにとの願いをその名前に込めようとしたのだ。しかし夫ヤコブは、我が子が生涯、この名を引きずって歩むことを望まず、ベニ・ヤミン、幸いの子と命名した。ヤコブは生まれたばかりの我が子が、悲しみの方向に生きるのではなく、幸いの方向に生きることを願ったのである。こうしてラケルの遺体は、エフラタ(今日のベツレヘム)に向かう道の傍らに葬られた。ベツレヘムは、ラケルが我が子と一緒に到達することができなかった、母ラケルの悲しみが注がれた町なのである。

それから何百年も後、預言者エレミヤの時代、ユダヤの国がバビロンという国に滅ぼされ、ユダヤの民は捕囚となって、バビロンに連れ去られて行ってしまう。そのとき、再びベツレヘムは母親たちの悲しみの町となった。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む。息子たちはもういないのだから」(エレミヤ書31章15節)。イスラエルの民が捕虜としてバビロンに連れて行かれるときに、ベツレヘムは集結を命じられた町となった。バビロンは自国に有益と判断された者たちをこぞって捕虜として連れて行った。やはり、若い人たちが多かった。彼らはベツレヘムの地に集められ、そこから異郷の地バビロンへと連れて行かれた。捕虜となってベツレヘムを出発して行く息子たちの姿を見て、母親たちは耐え切れずに涙を流した。愛する我が子を取り去られた母の悲しみを、預言者エレミヤはあのラケルの悲しみに重ねたのだ。ベツレヘムは、捕囚に連れて行かれる我が子を悲しむ母親たちの悲しみの涙が流された町となった。

それからさらに600年、再びベツレヘムに悲劇が起こった。ユダヤの王ヘロデの命令により、ベツレヘムとその周辺一帯にいた幼児の大虐殺が行われたのである。ヘロデは、ベツレヘムで王としてお生まれになった御子を、自分の王位を奪う者として、そのまま生かしておくわけには行かないと思った。しかし東方の学者たちは御子を拝んだあと、ヘロデのところに戻らなかった。そのため王として生まれた赤子がどの子なのか、確定することができず、結局ヘロデはベツレヘムとその周辺の町々に住む赤子と幼児までも殺してしまったのである。愛する我が子が理由もなく殺され、悲しむ母親たちの叫びが再びこの町に響いた。ラケルの墓の前で再び悲劇が起きたのだ。マタイはラケルの悲しみと重ね合わせて、あのエレミヤの預言の言葉を引用している。このように、ベツレヘムは多くの母親たちの涙が流されてきた地。愛する我が子との間を無理やり引き裂かれるという悲劇が繰り返された地なのである。どうすることもできない歴史の現実、不条理・・・それらを引き起こす人間の罪という現実の前で、無力の涙が流された地である。しかしそのベツレヘムの地に救い主イエスはお生まれになられた。それは、母の悲しみの現実を生んだ人間の罪のただ中に、イエス様は生まれて来られたということなのである。ヘロデによる幼児虐殺の出来事を読んで、イエス様がベツレヘムに生まれたばっかりにこんなことが起きてしまったのだと思うかも知れないが、ヘロデのような人間が王として君臨していることこそが問題なのである。世の中には、そのような不条理なことがたくさんある。「何で・・・」と言いたくなることが一杯ある。主はその悲しみのただ中に入って来られた。私たちの悲しみの中に共に立つためである。

考えてみると、主のご生涯は、罪の痛みと不条理の中に立ち続けるご生涯であった。神の御子であるのに家畜小屋に生まれ、愛に生きたにもかかわらず、指導者たちからは排斥され、その行き着いた先は十字架であった。十字架上での最後の言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、主が最後まで人間の罪と不条理の中に立たち続けられたことを示している。しかし、その叫びに父なる神は復活という恵みをもって応えられた。そのとき、不条理は主の死と共にその息の根を止められてしまった。主と共にある私たちにとって、もはや罪と不条理は力を持たなくなったのだ。罪と不条理を圧倒的に凌駕する神の愛が私たちに注がれていることが明らかになったのだから。それがクリスマスを祝う私たちひとりひとりに与えられている神の恵みである。