2012年12月16日日曜日

2012年12月16日 説教要旨


「 祈りを要請される神 」 ルカ18章1節~8節

「気を落とさずに絶えず祈らならなければならないことを教えるために」と、語られたイエス様のたとえ話。「祈らなければならない」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「祈る必要がある」となっている。一体、誰が祈りを必要としているのだろうか。祈りは「私たち」の必要が満たされるためにするものだと、当然のように考えているかも知れない。だが、このたとえ話では「イエス様」が私たちの祈りを必要としておられ、私たちに祈ることを要請しておられる、そういうたとえ話なのである。たとえ話の結びで、「しかし人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すだろうか」と、主は言っておられる。「人の子が来る」というのは、先週の箇所で見たように主の再臨のことである。そのとき、地上に信仰を見出すことができるだろうかと主は言われる。この言葉にはイエス様の強い願いが込められているであろう。「私は人々の信仰が満ち溢れる中で迎えられたい。それを切望している。だが、そのように満ち溢れの中で迎えてもらえるのであろうか・・・」。ここでいう信仰は、絶えざる祈りを生んでいる信仰である。祈らずにはおれないという信仰。そういう信仰の満ち溢れの中で私は迎えられたいのだと、主は言われるのである。

では、その祈りの内容は何であろうか。一人のやもめが登場する。彼女は裁判官のところに行き、必死になって「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴えている。当時の社会では、生活に困窮しているやもめが数多くいたらしい。そして、やもめたちはしばしば、悪質な指導者や搾取する者たちによって虐げられていたそうだ。神の律法は、やもめたちに対して特に憐れみを施すようにと教えているが、実際には、弱い者を守るどころか、むしろ弱い者を食い物にしてしまう社会の現実があった。正義が行なわれていなかったのだ。おそらく、このやもめも何か不正なことでもって、苦しい立場に置かれてしまったのだろう。裁判官のところに来て、必死になって訴える。「裁きを行なってください。正義を打ち立ててください」と・・・。この必死になって「裁きを行なってください。正義を打ち立ててください」と訴えるやもめの姿の中に、主は弟子たちの姿、そして教会の姿を重ねておられるのである。主は山上の説教と呼ばれる箇所で「義に飢え乾いている者は幸いです」と言われた。義とは神の正しさ。神の正義がこの世に打ち立てられることを飢え渇くように求める者、神の正しい裁きが行なわれる日が早く来るようにと求める者は幸いだと言われたのである。このたとえも同じことを語っている。このたとえ話では、「裁く」という言葉が繰り返される。やもめが裁判官に正しい裁きを求めて食い下がったように、私たち教会に生きている者たちは、この不正がまかり通り、弱い者たちが虐げられている社会のただ中にあって、「神よ、どうぞ、あなたの裁きを行なってください。あなたの正義を打ち立ててください」と、飢え渇くように祈り続ける・・・その祈りをイエス様は切実に要請しておられるのである。神の正しい裁きが行なわれる時というのは、イエス様が再びこの世に来られる時である。その時、イエス様はすべてのものを裁き、白黒、決着をおつけになる。この世の歴史にピリオドが打たれ、そこに神の正義が打ち立てられる。主が再び来られる時というのは、神がお定めになるのであって、それがいつなのか、私たちには分からない。だが、神は私たちの祈りを用いる形で、その時をお定めになるのである。

 気を落とさないために・・とあるが、私たちは気を落としてしまうことがある。この不正な裁判官のように、「神など畏れないし、人を人とも思わない」人間が権力の座についているのだから、どうしたって、世の中が良くなるはずがない。いくら選挙に行ったところで、政治家たちだって、結局は自己保身ということが先に立って、本当になすべきことなんかしてはくれない。この世は正義が勝つなんてことはない。悪人が栄え、正しい者が馬鹿を見る不条理な世界なのだ。そう言って気を落とし、あきらめ、祈らなくなるのである。でも、このやもめはあきらめないで、必死になって食いさがった。そして裁判官の心は動く。やもめが可哀想だからではない。このままだと自分が持たないと思ったから。こんな裁判官でも訴えを聞いたのなら、「まして神は」・・・とイエス様は言われる。神は、この裁判官とは正反対の方。ならば、喜んで聴かれないはずはないと・・。困窮していたやもめ、信仰者は願い続けるより他、なす術がない。昼も夜も祈る。それは熱心であるからではない。昼も夜も問題が次々と起こり、不安が尽きないから。そして本当の解決は、この方のところにしかないと知っているから・・・。私たちはこの国が少しでも良くなるようにと選挙をし、選ばれた人たちに協力もする。だが政治の力だけでこの世の問題がすべて解決するとは思っていない。世の中の問題の根底には、人間の罪がある。エゴイズムという罪が。人間の力でその罪に勝つことはできない。罪に打ち勝てるのは主ただおひとり。だから主の再臨を切に待ち望むのである。マラナタ(主よ、来たりませ)の大合唱の中で主をお迎えしようと、祈りの火をともし続ける、それが教会。クリスマスの日、後に主を殺してしまうような不信仰に満ちた世に、イエス様は飛び込んで来てくださった。ならば、マラナタの祈りが満ち溢れているならば、主は速やかに喜んで来てくださらないはずがない。