2012年12月2日日曜日

2012月12月2日 説教要旨


「 感謝を生む心 」 ルカ17章11節~19節

イエス様がエルサレムに上る途中、重い皮膚病に苦しんでいた10人の人を癒された話。病を癒された10人のうち、ただ一人だけがイエス様の元に戻って来て感謝した。なぜ1人しか戻って来なかったのか、私たちの関心をひく。主は戻って来た1人を外国人と呼んでおられる。さらにルカはわざわざ「この人はサマリア人だった」と書いている。この出来事はユダヤ人とサマリア人を対比する枠組みをもって伝えられているのである。おそらく10人のうち9人はユダヤ人で、主の元に戻って来た人だけがサマリア人であったのだろう。ユダヤ人とサマリア人は極めて仲が悪かった。サマリア人はユダヤ人が他民族と結婚して混血になった人たちのこと。神に選ばれた特別な民族であることに誇りを持っていたユダヤ人たちからすると、彼らは民族の誇りを捨ててしまった人たちであり、軽蔑すべき存在だった。そんな彼らがここでは一緒になってイエス様に助けを求めた。重い皮膚病という同じ苦しみを味わっているという事実が、彼らの間の障壁を取り去り、そこに深い絆を生んでいた。重い皮膚病にかかった者は、この当時、「神に捨てられた者」と見なされていた。神に棄てられた汚れた存在として、社会から隔離されて人目に触れぬよう、町外れでひっそりと暮らさなくてはならなかった。遠く離れたところに立ち、10人があたかもひとつの声のようになって叫ぶ、その姿をご覧になってイエス様は「祭司たちのところに行ってからだを見せなさい」と命じられた。当時、この病気が治ったか、否かを判定するのは祭司たちの役目だったからである。10人はすぐにイエス様のご命令に従った。だがその途中、サマリア人は自分が癒されていることに気がついて、向きを変えてイエス様のところに向かう。あのイエス様を遣わしてくださった神様が私を癒してくださったと、神様をほめたたえながらイエス様の元へと向かう。しかし他の9人は別行動を取った。彼らは祭司のところへ行くことを優先した。何がこの違いを生んだのか、聖書には何の説明もされていない。だが、この出来事がユダヤ人とサマリア人を対比する枠組みをもって伝えられていることからその理由を推測することができる。9人のユダヤ人たちは、自分たちが癒されたことを「神の恵みだ」と思わなかったのだ。むしろ癒されて当然、当たり前のことが起こったのだ。そもそも神に選ばれた民である自分たちがあんな病気になること事態、あってはならないことだったのだと思ったのである。しかし自分は神に捨てられた民族の一人であって、恵みに与る資格もないと思っていたサマリア人は、癒されたとき、それは恵み以外の何ものでもないと思ったのである。神の恵みの受け止め方がまるで違った。それが両者の違いを生んだのである。当たり前だと思う心からは、不平は生まれても感謝は生まれない。私たちは、本当は神様からの恵みであるのに、それが当たり前のことように考えてしまっている、そういうことがたくさんあるのではないか。健康であること、仕事がうまく行くこと、安定した暮らしができていること、それは自分が努力した結果であって当たり前のことなのだ。そう考えてはいないだろうか。しかしそれは本当に当たり前のことなのだろうか。入院中の山岡文姉が胃ろうをやめて自分の口で栄養を摂取できるようになった。「感謝です。感謝です。こんなにしていただいて」と山岡姉は言う。私たち健康な人間にとっては、口から物を食べられるというのは当たり前のことに過ぎないが、一度でも病気をした人間からすれば、それは決して当たり前のことではなく、神の恵みとして受け止められているのである。もうひとつのことを学ぼう。癒された10人には社会に復帰する道が与えられた。それはどんなに大きな喜びであろうか。しかしその喜びが訪れたとき、このサマリア人は人々との関係を取り戻すことから始めるのではなく、神様との関係に深く入ることから始めようとした。神様の元から・・・そこを人生の出発点、中心にしようとしたのだ。その結果、彼だけが「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」という宣言を聞くことができた。10人全員が癒された。しかしこの人だけが「救われた」と言われた。このことが示しているのは、救われるということは病気が癒されることよりもはるかに大きな恵みであるということ。救われている人間というのは、魂健やかに病むことさえ出来る。健康であること以上の祝福の中にいるから。救われている人間は、すべてのことを神様との感謝のかかわりの中で受け止め直すことができる。それは「立ち上がって、行きなさい」・・・「あなたは立ち上がれる。そして生きて行くことができる。私はあなたと共にいるから」という主の言葉を聞くことから、生きることができるから。楽譜の最初につくフラットは、最初にそれがついているだけでその曲全体を最後まで支配する。それと同じように、今こうして神様の元に戻って来て、そこから1週間を始めようとしている私たちの人生には、神様の恵みのフラットがつけられているのだ。「立ち上がって、行きなさい」という恵みのフラットが・・・。途中、悲しい調べが奏でられるようなことがあっても、その曲全体を支配しているのは、神の恵みのフラットなのだ。「ほかの九人はどこにいるのか」・・・イエス様は戻って来なかった9人を責めるのではなく、心配されている。彼らにも同じ言葉をかけたいと切望しておられる。私たちを用いて・・・。