2012年11月25日日曜日

2012年11月25日 説教要旨


「 人の力か神の力か 」 ルカ17章1節~10節

今朝の箇所には、赦し、信仰、奉仕という小見出しがつけられている。3つの異なるテーマが、バラバラに羅列されているかの印象を受けるが、「信仰とは何か」という一点でちゃんと結びついていると思われる。まず1節~4節、イエス様が弟子たちに罪を犯した者を赦すことを教えておられる。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」・・・一日に7回とはすごい。私たちなら3回目ぐらいからは「あなたちっとも悔い改めていないし、本当は悪いなんて、これっぽっちも思っていないでしょう」と文句を言いたくなるだろう。イエス様は、8回目は赦さなくてもいいと言うのではなく、徹底して赦しなさいと言われているのである。私は、時々、こういうことを思い巡らす。私たちが地上の生涯を終えると、神様の御前に立ち、それぞれの人生の報告をするときが来る。それは、今まで不十分にしか理解できていなかった神様の愛を、その高さ、深さ、広さ、長さに至るまですべてを理解する時である。 そのとき私たちは、自分が赦すことのできなかった人、和解できないままに地上の生涯を終えてしまった人、そういう人たちのことを神様はこんなにも赦しておられたのか、こんなにも愛しておられたのかと知って、恥じ入るような思いになるのではないか・・・そう思い巡らすのである。ならば、そのようなことにならないようにと願うわけだが、実際には自分の信仰を見つめると、それほどの力もないし、勇気もないとため息をついてしまう。これは、もう自分の信仰を増していただくしかないと思う。弟子たちも同じように考えたのだと思う。今の自分の信仰、小さな信仰では、徹底してどこまでも赦す心に生きることなんかできない。これはもう、信仰を増していただく、強くしていただくしかないと・・。だから弟子たちは「わたしどもの信仰を増してください」と言ったのである。

 「わたしどもの信仰を増してください」、私たちも今まで幾度となく、このような祈りを繰り返してきたのではないだろうか。イエス様の御言葉に聴き従って行こうとすれば、必ずや自分の弱さを知らされ、こうした祈りを祈らざるを得なくなる。 赦すことが語られたなら、赦せない自分があることを知らされる。愛しなさいと言われたら、愛せない自分がいることに向き合わされる。喜びなさいと言われたら、喜べない自分であることを知らされる。感謝しなさいといわれたら、感謝できない自分であることを見つめさせられる。それが私たちの経験するところ。何度となく、ふがいない自分を知らされ、「私には信仰が足りない」と思う。しかし、信仰はそこから始まるのである。「イエス様は無理なことをおっしゃる」と言って、反発するのではなく、イエス様にお願いする気持ちになれたこと、そこから信仰は始まるのである。だがそこで問題となるのは、「信仰を増してください」という時に、その内容が何を意味しているか、である。弟子たちは、こう考えた。自分の中にある信仰の力は足りない。もっとその容量を増やしてもらって、私の内にある信仰が大きく、強くなるようにしてもらおう・・・。しかし、本来、信仰とはそうやって自分の中にさらに大きな力が蓄えられていく、そういうことなのだろうか。イエス様は、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)と言われる。信仰を大きくしてくださいと願う弟子たちに、信仰は本当に小さなものでよいのだと言われる。イエス様は、弟子たちの信仰に欠けている何かを指摘されたのだ。しかもそれが決定的に欠けているならば、信仰がないと断定されてしまうようなことを。それがからし種一粒の信仰・・・それは何なのか。

信仰は、私たちの内側における決心だとか覚悟だと、力が大きくなることではない。本当に信じることも、御心に沿うことも適わない、何ひとつできない自分であるにもかかわらず、それでも神様がそんな自分に関わり、この自分を捕らえて働いてくださるということ、そこに信仰があるのである。神様は関わってくださる。そこに信仰を見ていく。自分の力ではない。神様の力が私たちに働きかけてくださる。その主にすべてを委ねて行く。そこに、決して欠いてはならない私たちの信仰がある。からし種一粒の信仰とはそれである。私たちは自分の信仰の力がどれほどの大きさか、どれだけの容量があるかにこだわる。しかし、信仰の急所は力の弱い私たちに神様の御手が添えられているということこそが決定的な意味を持つことなのである。イエス様が話された「取るに足りない僕の話」は、そういう自分の力、自分のしたことから解放されている信仰者の姿を示している。イエス様の言葉を冷たく感じるかも知れないが、「するべきことをしたに過ぎません」と言うようにとの言葉は、それが自分の力による者ではなく、自分を通して働かれた神様の力であることを知っている者にしかできない発言、からし種の信仰に生かされている者だけが喜んで口にできる言葉なのである。私たちの成し得たところによるのではなくて、神様の愛の中で私たちが本当に受け入れられ、恵みのうちに生かされ、用いられて行く。高慢な思いの中で、何かをなすのではなく、私たちのすべてを主に任せて、主の働きの中に生きて行く歩みを続けて行きたいと願う。