2012年5月6日日曜日

2012年5月6日 説教要旨


祈りを教えてください 」  ルカ11章1節~4節 

入院をしている兄の病院を訪ねた。その帰りに病床で、主の祈りをいつからか、私は祈るようになった。主の祈り、主イエス様が教えてくださった祈りなので「主の祈り」と呼ばれているが、これはイエス様ご自身も日々、口にしておられた祈りであると言われている。私は今まで、主の祈りは神様の栄光を求める祈りであって、神様のための祈りという思いが強かった。実際、私たちの礼拝式順で主の祈りが奉献の祈りに続いてあるのも、そういう理解を反映してのことだ。しかし最近は、主の祈りは私たちの幸せを願う祈りだという理解が私の中で強くなってきたように感じている。イエス様はあの十字架の上で、私たちのために命まで差し出してくださった方。その方が日々祈っておられた祈りということであれば、それは当然、私たちが幸いに生きることを願うものでないはずがない。ルカはその祈りの内容をマタイのそれよりも短くこう伝えている。「父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください」・・・。

 まず、御名が崇められますようにという祈りが来る。「あがめられる」というのは、原文ギリシャ語では「聖とされる」という言葉が使われている。神様を聖なる方として、他のものと区別する。神様を、お金だとか、物だとか、あるいは自分、人間とかと絶対に混同しないということである。つまり、神様を神様とするということである。御国が来ますようにという祈りがそれに続く。御国というのは、神様の支配のこと。神様が王として支配される時が来るようにということ。私たち人間は、神様が神様として私たちを支配してくださるとき、そしてその支配に信頼して私たちを委ねて行くときに、幸いに生きることができるのである。いろいろと難しい問題、心を痛める出来事が私たちの人生にはある。それをなくそうとしてもなくならない。だが、そこで信じて身を委ねることができる方がいるなら、自分ひとりですべてのことを担って頑張らないと・・・・と思わないでいいと言ってくださる方が傍らにいてくださるなら、私たちは幸せに生きられるのだと思う。困難な中を、痛みの中を・・・。だからイエス様はこの祈りを祈るようとまず教えられたのだ。私は兄に対しても神様が兄の神様となり、ご支配してくださるならば、病を負いつつの歩みにあっても、兄にも幸いを知ってもらえると信じている。

「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから 」という祈りが続く。これは私たちが生きるために必要なことを求めなさいという祈りである。私たちが生きる上で、どうしてもなくてはならないものって、何であろうか。それは日毎の糧と罪の赦し。宗教改革者のマルティン・ルターは食事の前の祈りでいつもこう祈ったと言う。「主よ、私たちが生きる上で必要な肉の糧と罪の赦しを今日も与えてくださり、感謝いたします」と。自分には罪の赦しは必要ないとは思わない。本当にそれが必要だって思う。今まで一体、どれだけの人と出会い、そしてその人に傷を残したり、嫌な思いを与えてきてしまったことか。いい出会いばかりではない。思い出すだけでも苦くなるような、そういう出会いを作ってしまった自分がいる。今となっては、もうその出会いを修復することもできなくなってしまった人もいる。そういう自分がなお生きる、生きなければならないというならば、それはもう神様に罪を赦していただくしかない。神様が与えてくださった数々の隣人を自分は傷つけてきた。それは、隣人を傷つけたということにとどまらず、その隣人を与えてくださった神様をも傷つけてきたことなのだ。どうぞ、その罪をお赦しくださいと祈らざるを得ない。神様の赦しがなければ、本当に消えてなくならなければいけない、そういう自分なのである。イエス様は、そういうあなたがなお赦されて、生きることができるようにと、この祈りを祈ることを教えてくださったのである。日毎の糧を求める祈り・・・貧しい家庭で育った子どもの頃を思い出すと、もし自分がこの祈りを知っていたなら、ずいぶん違った歩みが出来たのではないかと思うことがある。必要な求めに応えると言ってくださる方がおられることを知っていたならば、犯さずに済んだ罪もあったから・・・。

 最後に「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」という祈りが教えられている。この祈りは随分、極端な祈りではないかと思う。誘惑とある程度戦いながらそこで助けてください、という祈りではない。戦う前から、誘惑が近づかないようにしてくださいという祈りなのである。言って見れば、弱虫な祈りなのだ。自分の弱さを認めるような祈りであって、現代人にはなかなか受け入れられない祈りかも知れない。だが、私たちの人生には困難がつきものだ。その困難に心が折れて、「もうこのような目にはあわせないでください」と叫びたくなることがあろう。イエス様は、私たちが万策尽き、力尽き、無力を徹底して知らされる、そういう場所に立ち至った時にも、なお、祈れる祈りがあるのだということを教えてくださっているのだ。そして、神様はその祈りを聞いてくださる方なのだと。