2014年11月30日日曜日


 
成瀬教会 <聖書日課>  12月1日~12月7日
12月1日(月) 創世記3章14節~15節
  アダムとエバを背信へと誘惑した蛇(悪魔)に、神の裁きが宣告されています。「 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く 」(15節)。この言葉は原福音と呼ばれ、女の子孫とは救い主イエス・キリストのことを言っていると理解されています。女の子孫であるイエス・キリストが悪魔に対して、最終決着をつける。悪魔は御子のかかとを砕くような傷を負わせますが(十字架)、それは致命傷ではありません。反対に、御子は蛇の頭を砕くという致命傷を与えます。つまり、悪魔に対して完全に勝利するのです。神様は、最初のときからすでに救い主による人間の贖いを考えていてくださったのですね。神様は私たち以上に、私たちの救いのことを熱心に考え、導いていてくださいます。それゆえのフィリピ3章12節の私たちの姿勢なのです。
12月2日(火) 創世記3章16節~19節
  蛇(悪魔)だけでなく、神様は男と女に対しても、裁きの宣告をなさいました。女は出産に伴う苦しみが大きくなると言われています(16節)。男は食べ物を得るための苦しみ、すなわち労働の苦しみがあると(17節、19節)、宣告されています。しかし、この裁きは単なる苦しみだけではなく、大きな喜びが伴っていることを忘れないようにしましょう。そこに神様の心が感じられますよ。出産は、「 産めよ,増えよ、地に満ちて 」(1章28節)と、祝福として語られていましたね。どんなに苦しんで子どもを産んだとしても、そこには新しい命を生み出した喜びがあります。それは苦しみ以上に大きなものです。額に汗して日毎の糧を得ることも、苦しみだけではなく、達成感や充実感、そして家族を養える喜びというものが伴います。神様の裁きは、単なる裁きでは終わらず、祝福をより祝福と感じさせる働きをするのです。イエス・キリストのあの十字架がそうであるように・・・・。
12月3日(水) 創世記3章20節~24節
  「 こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた 」(24節)。神様はエデンの園からアダムとエバを追放されました。神様はエデンの園の命の木を守るために、再び彼らが園に入らぬよう、見張りのケルビム(天使)ときらめく剣を配置されました。見張りを置いたということは、神様もエデンの園から出られたのだということでしょう。神様が園におられるならば見張りなど必要ないからです。神様はアダムとエバの後を追うように、ご自身も園を出られたのです。まるで我が子の行き先を案じる親のように・・・。1匹の羊を追い求める羊飼いの姿が、神様のお姿と重なりますね。
12月4日(木) 創世記4章1節~7節
 カインとアベルの物語です。この物語の解釈の困難さは、なぜ、カインの捧げ物を神様はお喜びにならなかったのか、その理由が記されていない点にあります。そのために、いろいろな理由が考えられて来ました。捧げる心の姿勢、すなわちカインは最上のものではなく、どうでもよいものを捧げてしまったのだとか・・・。でもそれらは推測の域を出ませんね。確かなことは、カイン本人はその理由を知っていたであろうということ。なぜなら彼は顔を上げられないでいたのですから。このよう信仰生活には、他の人には分からない、本人にしか分からないという部分があります。そしてその本人と神様にしか分からない部分をいい加減に誤魔化すのではなく、真剣に、大切にする、人の目ではなく、神様の目、それが信仰の肝なのです。
12月5日(金) 創世記4章8節~16節
  人類最初の殺人事件が起きてしまいました。カインが怒りをアベルにぶつけてしまったのです。神様との健やかな関わりを失うとき、人は他者との健やかな関わりをも失うことになります。人間のストレスの9割は人間関係から来るといわれますが、それを聖書の観点から言い換えると、人間のストレスはすべて神様との関わりの喪失が根底にある、と言うことです。嘆きの言葉を口にするカイン(13節)に対し、神様は彼を守るためのしるしを与えてくださいました(15節)。どんなしるしであったのか、分かりません。しかし私たちには「 神様があなたを守る 」という明確にしるしが与えられているのですよ。それはイエス様が十字架にかかり、三日によみがえられたというヨナのしるし(マタイ16章4節)と言われるものです。御子の十字架と復活は、神があなたを愛されていることの最上のしるしなのです。
12月6日(土) 創世記4章17節~26節
 「 セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである 」(26節)。これは、心惹かれる言葉だと思います。彼らは祈り始めたのです。祈り始めたところでは、この地上においてさすらう中にも故郷が生まれるのです。もしあなたが今、この地上の生涯を、たださすらうだけのつまらないものと感じているならば、ぜひ、祈り始めてみましょう。
12月7日(日) 創世記5章1節~32節
  アダムの系図が記されています。人の名前ばかりで、読んでいておもしろくないと思われるかも知れませんね。ここには何々を設け、何年生き、そして死んだという言葉が繰り返されています。「 産めよ,増えよ、地に満ちて 」(1章28節)と言われた祝福の言葉と対立することが、語られているわけです。死んだ、という言葉が繰り返される中、「 エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった 」(24節)という言葉は異彩を放っています。そうです。神と共に歩むとき、人はたとえ肉体の死を迎えても、それは死でないのです。神のもとに取られた、依然として神と共にあるのです。ここには死を越えた祝福も記されているのです。
 

先週の説教要旨「 キリストの声を聴き 」使徒言行録21章37節~22章16節 
  パウロはユダヤ人クリスチャンたちの誤解を解消するために、神殿に出かけたが、そこでユダヤ教徒たちから新たな誤解を受け、騒動に巻き込まれてしまう。その騒動を鎮静化させようとかけつけたローマの兵士たちの手によって、彼は保護されるような形で、神殿から担ぎ出されようとしていた。その途中、パウロは群集に対して語ることを許してほしいと千人隊長に求めた(39節)。それがきっかけになって、22章からパウロの弁明が始まる。まず、ユダヤの民衆に対する弁明があり、続いてユダヤ議会に対する弁明、そしてローマ総督フェリクスに対する弁明(24章)、ユダヤの王アグリッパに対する弁明(26章)というように、これから弁明が相次ぐ。今朝の箇所は、その最初としてユダヤの民衆に対するパウロの弁明である。弁明という言葉をあえて使ったが、内容的に見ると、自分が釈放されたいがための弁明ではなく、かつては熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教の迫害者であった自分が、どうして今ここに立たされるほどに、自分の人生が変わったのか、つまりキリストにとらえられた彼の証なのである。だがパウロの言葉は聴き手の心に届かない。普通は、何回か話をしても伝わらない相手に対しては、話したくなくなるものだが、パウロはあきらめることなく話し続ける。それは本当に話したいこと、伝えたいことがあったからではないか。自分の命をかけてでも、本当に伝えたいことがあった・・・だからパウロは何度でも同じことを話そうとするのである。俳優の高倉健さんが亡くなった。彼は無口であったと言われるが、たとえ無口であっても人に伝えたい、人に言い残したいという何かを人は持っているものだと思う。高倉さんは自分自身を貫くことを一番伝えたかったらしい。翻って、私たちはどうか。私たちが誰かに言い残したいこと、愛する人たちに受け継いでほしい内容とは何か・・・。もしその言葉が単に、自分自身のことだけであったり、人生に対する恨み、つらみだけであったとしたら、何と寂しいことであろうか。やはり、私たちが言い残すべきことは、本当に価値あるものであってほしいと思う。私たちは信仰を持っているからと言って、信仰を持たない他の人より優れているとは決して言えない者である。しかし私たちが伝えたいという内容については、やはり信仰を持たない他の人たちとは比べものにならないものを、私たちは神様から与えられているのではなか。

パウロの証は22章から始まるが、今朝は彼の証から2つのことを私たちは心に留めたいと思う。まず第一は、キリストと信じる者の結びつきということである。パウロは、キリスト教信者を迫害していたのだが(4節、5節)、復活のイエス・キリストは「 なぜ、わたしを迫害するのか 」(7節)と言われた。信者に対してしたことは、この私に対してしたことなのだと、主は言われたのである。それほどに、イエス様と信者は深く結びついているのだ。復活のキリストは、そこにある教会と切り離すことのできない仕方で生きて働いておられる方なのだ、ということをパウロは知らされた。後に、パウロはそのことをこう表現した。「 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です 」(Ⅰコリント12章27節)。また信者たちを励まして「 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた 」(Ⅱコリント5章Ⅰ7節)と書いた。新改訳聖書はここを「 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました 」と訳していた。つまり、キリストと結びついた者は、本人だけが新しくなったというのではない、すべてが新しい。自分が経験する良いことも、悪いことも、そういうものまでも皆、新しいものになっている、今までとは違うと言うのである。たとえば、あなたが経験する苦しみも、キリストと結びついたときから、苦しみもまた新しくなっている。苦しみの意味が変わってしまっているのである。その苦しみはキリストがご自身の苦しみとして受けておられるものであるし、キリストはご自身が受ける苦しみを必ず意味ある苦しみへと変えられる方、無意味なままに終わらせない。そういう意味で、私たちの苦しみもまた新しくなっているのである。パウロはこのとき、自分が受けている苦しみをそのようなものとして受け止めていたであろうし、これは私たち全ての信仰者に与えられている祝福なのである。

もうひとつは、神はキリストに結びついた者に新しい使命、生きる目的を与えられるということ。そしてその道は、与えられる日々の出来事の中でキリストの声を聴くという形で開かれていくということ。パウロはダマスコ途上で天からの光に撃たれ、倒れてしまう。そこでキリストの声を聴くのだが、周りにいた者たちは光を見たが、キリストの声は聴いていない(9節)。同じ出来事を経験しながらも、その出来事からキリストの声を聴いた者と聴かなかった者とが、いる。こういうことは、私たちにおいてもよく起こることである。私たちが日常生活で経験する様々な出来事の中からキリストの声を敏感に聴き取り、反応する人とそうでない人とがいる。その違いは日々、祈り、神の言葉に触れているかどうかで、大きく異なる。日々、触れている人は日常の出来事の中に神の声を聴き、神の導きを敏感に感じ取る。私たちは日常の出来事の中からも神の声を聴き取り、その導きを敏感に感じられるように、日々の祈りと御言葉の生活を大切にしよう。
                                                    2014年11月23日)