2014年4月30日水曜日


成瀬教会 <聖書日課>  4月28日~5月4日

4月28日(月) 詩 編 134編1節~3節
  短い詩編ですね。1節の「 主の僕らよ、こぞって主をたたえよ。夜ごと、主の家にとどまる人々よ 」と言われている、とどまる人とは夜毎に神殿で仕え、祈るレビ人のことです。私たちはどのように夜を過ごしているでしょうか。「 歴史は夜作られる 」という言葉がありますね。夜、酒を酌み交わしながら、歴史を動かすような密談が行なわれるということでしょうか。「 人間は夜、罪を犯す 」という言葉もあります。夜は神の前に静まる、神と共にある時にできたらいいですね。ある人が夜、夢の中で「 どうぞ、偉大な人に合わせてください 」と祈っていたら、天使が現れて彼を外に連れ出し、大臣の家を通り越し、将軍の家も通り過ぎ、そして民家の中で祈っているひとりの人の前に連れて行かれたと言うのです。偉大な人とは・・・。

4月29日(火) 詩 編 135編1節~21節
  この詩編は、賛美せよ、賛美せよ、そしてほめたたえよと、怒涛のように迫って来ますね。「 ほめたたえよ 」というのは、ヘブライ語では「 ハレルヤ 」ということです。ほめたたえる、そこには自分の利益や関心を忘れて、ただひたすら主の方を向いている姿があります。御使いたちは、天にあっていつも神をほめたたえています。ならば、私たちが黙っていては、石が叫び出すのではないでしょうか(ルカ19章40節参照)。いつでも、どこでも自分のことに執着して一喜一憂している私たちは、神がそのすべてとなる賛美の世界へと引き上げられる必要がありますね。私たちは「 神の家の庭に居並ぶ人々 」(2節) なのですから。

4月30日(水) 詩 編 136編1節~26節
  この詩編は、礼拝における交読用に整えられています。司式者と礼拝者が交互に呼び交わすのです。9節の「 夜をつかさどる月と星を造った方に感謝せよ。慈しみはとこしえに 」という言葉は、何と慰めに満ちている言葉でしょうか。暗い夜のために、神は月と星を造ってくださいました。それはすべての事における「 神のなさりよう 」を表しています。人生のどんな暗闇にも、神は光を与えてくださると言うのです。そうです、神の配慮は途絶えていないのです、暗闇の中にあっても・・・。一筋の導きの光を必ず備えていてくださいます。だから感謝が口をついて出るのですね。

5月1日(木) 詩 編 137編1節~9節
  呪詛詩編としてよく知られている詩編です。イスラエルの民を捕囚という憂き目に合わせたバビロンに対する呪いの言葉が聞こえています。詩人は捕囚地のバビロンの民から「 お前たちの神をほめたたえる歌を歌ってみろ 」と酒宴の場で愚弄されたのでしょうか。敵をも赦せと言われたイエス・キリストを知る新約時代の信仰者には、この詩編から多くのことを学ぶことはできないかも知れません。ただ、私たちはどこに連れて行かれても、神を賛美する心を忘れないようにしましょう。パウロとシラスは獄中で賛美をし、神がその賛美に応えるにして、彼らを救い出してくださいましたね(使徒16章25節)御業をしてくださいましたね。神はいかなる場所から聞こえる賛美にも応えようと耳を傾けておられます。

5月2日(金) 詩 編 138編1節~8節
  「 呼び求めるわたしに答え、あなたは魂に力を与え、解き放ってくださいました 」(3節)と言われているように、神は求める私たちに答えてくださる方です。「 主は高くいましても、低くされている者を見ておられます。遠くにいましても、傲慢な者を知っておられます」(6節)。いと高き神は、それにふさわしくない低い者に、目を留めてくださいます。どんな深いところから発する声にも、耳を傾けてくださいます。「 わたしが苦難の中を歩いているときにも、敵の怒りに遭っているときにも、わたしに命を得させてください 」(7節)。信仰者にとって、苦難は苦難のままで終わりません。苦難の中を歩いているときも、神は一切のことを私たちの命を育てる糧としてくださるのです。そのことを信じて疑わないようにしましょう。

5月3日(土) 詩 編 139編1節~24節
  詩編139編は、私たちがどこに行っても、恵みの神はそこにおられるという信仰が歌われています。「 数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、わたしはなお、あなたの中にいる 」(18節)。この世の極限に立ったときにも、自分はなお、神の手の中にあるというのです。人間の可能性の尽きた地点でも、人は神の可能性にとらえられているのです。「 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない 」(12節)。夢であってくれたらいいのに・・・そう思う暗い日が人にはあります。しかし人にとってどんなに暗い日も、神にとっては暗くはないのです。神の摂理の中では、深い意味の与えられた日であり、神の光の届いている日なのです。

5月4日(日) 詩 編 140編1節~14節
  「 主よ、さいなむ者からわたしを助け出し、不法の者から救い出してください 」(2節)。あなたには敵がいますか。人生は戦いだとよく言われます。あなたの敵とは誰でしょうか。敵のように見えて、本当は敵ではない。本来は仲間としてあるべき人なのではないでしょうか。本当の敵を敵として知ることが勝利の第一歩です。「 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです 」(エフエソ6章12節)。人を敵だと思い込むとき、私たちはサタンの思う壷になっているのです。

先週の説教要旨 「 復活の主はなお近くに 」ヨハネ福音書21章1節~19節 

「 ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか 」と、主は3度ペテロに尋ねられた。それでペトロは悲しくなった。主が十字架にかけられる前夜、「 たとえ、他の者があなたを見捨てても、私はどこへでも従ってまいります 」と固い決意を口にしたのに3度イエス様を知らないと言ってしまった。主はそのことを意識して問われた。ペトロにしてみれば、決して触れてほしくないことであった。その意味では、ペトロは聖書の中の人物で、主によって最も深く傷つけられた人物だと言えるかも知れない。もし神がいるなら、神は人間を悲しませるはずはないと考えている人たちがいる。しかし聖書は、人間にとって尊い意味を持つ悲しみを与える神を語る。富める青年がイエス様に「 永遠の命を手に入れるにはどうしたらよいか 」と質問した時、青年はイエス様の答えを聞いて悲しみながら立ち去った。主は、立ち去って行く青年をいつくしみのまなざしたでご覧になっていた。ペトロは主から悲しい思いをさせられたが、立ち去ることをしなかった。その痛い問いに向き合い続けたペトロのありようは、とても大切である。なぜなら、それが聖書の言う信仰だから。「 神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします 」と、Ⅱコリント書にある。主がペトロに与えられた悲しみは、この救いに通じる悔い改めを生じさせる、そういう幸いに通じる悲しみであった。今朝の罪の告白への招きの言葉は、イザヤ書59章1節、2節、「 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ 」というものだった。罪は私たちと主との間に隔たりを造り、恵みの通路をふさいでしまうのもの。だからその恵みの通路を開くために、罪はそのままにしておくべきではなく、それを告白し、神に赦していただき、取り除かれる必要がある。魂の医者であるイエス様は、取り除かなければならない患部があることを知りながら、それをそのままにして縫合するようなことはなさらない。患部を取り除かれる。イエス様がペトロの傷に直接触れるような問いかけをなさったのは、そのためであった。

「 この人たち以上に 」という言葉は特にペトロの胸を刺した。他の者が見捨てて逃げも、この私だけは・・・と言い張ったからだ。この主張を支えていたものは、自分は他の弟子たちと違う、よりしっかりした人間なのだという自負の心。あの人は、こういうところがだらしない。こういう点はちっともなっていない。私はそうやって他者を見下すことができる人間なのだ、という自負の心。私たちは、誰であっても、そのような自負の心を心の底に持っている。そして悲しいことに、そういう自負の心を拠り所として立っている。私はあの人のようなダメな人間ではない、他者との比較から生まれる歪んだ自信のようなものが、自分の拠って立つ根拠となっているのだ。主はそういう心を、人間を腐敗させる患部としてご覧になる。神からの恵みの通路をふさぐ、取り除くべきものとしてご覧になる。主を否認したとき、ペトロが拠って立っていた自負の心は、粉々に打ち砕かれてしまったはず。だがそれでもペトロはなお、自負の心から離れることができない。あんな失敗をしてしまった自分を赦すわけには行かない、あんな姿を自分だけと認めたくない。そういう自負の心に今もなお、こだわり続けているから、ペトロはよみがえりの主に何度もお会いしていても、主から遠ざかり、ガリラヤに戻って主に従う前の漁師の生活に戻ってしまったのである。主は、そういうペトロをもう一度、立ち上がらせるために、ペトロに近づかれた。そして「 わたしを愛しているか 」と問われた。この問いかけの前には、いかなる自分へのこだわりも、手離さざるを得なくなるのではないか。なぜなら、この言葉にはイエス様の思いのすべてが込められているから。「 ペトロよ、私の身に起きた受難という苦しみ、そして十字架の出来事、復活・・・それらの一連の出来事は、すべて『 あなたのため 』のものだったのだよ、それが分かるか。私は今もなお、あなたのことを愛している、その愛は変わらない。あなたを弟子として召し出したいと願っている。その意思は変わらなのだよ 」と言う思いが込められている。ペトロは「 はい、主よ わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです 」と答えた。以前のペトロであったら、こうは答えなかっただろう。ペトロは「 自分の愛の力であなたを愛することなんかできません。あなたを真に愛する愛は、あなたが私の心に呼び起こし、あなたがそれを支えてくださる、あなたが与えてくださる愛によってしかないのです 」と答えているのである。だからそれはあなたが一番よく知っていてくださることだと・・・。自分のだらしないことも、弱いことも、何もかも知っておられる主にすっかりお任せしてしまっている心もちなのだ。そうやって完全にイエス様に頼り切りながら、しかしペトロは主に対する愛を誓う。主はペトロに、「 わたしの羊を飼いなさい 」と言われた。主はペトロのような傷を持った人間を教会の尊い務めにつけられる。そういう痛みの経験を持っているということが、教会の宝になるのだ。健やかに羊の世話をする人間はこの痛みとそれに伴った愛を覚えている人なのである。(2014年4月20日)