2014年10月6日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月6日~10月11日

10月6日(月) ヨハネによる福音書13章31節~35節
 「 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる 」(34節、35節)。愛し合うことが新しい掟だと、イエス様は言われます。しかし、愛し合うことの大切さは旧約聖書においても明確に言われていました。それなのに、イエス様はなぜ、新しい掟だと言われるのでしょうか。どこが新しいと言えるのでしょうか。その新しさとは、これが実現可能な戒めとなったという点です。イエス様の愛に生かされる前は、いくら大切な戒めだと分かっていても、人は愛し合うことができませんでした。しかし今、この戒めは実現可能なものとなりました。そこが新しさなのです。イエス様の愛に生かされるならば、これは私たちにおいても実現する戒めとなっているのです。そのためには「 愛せるようにしてください、この約束の成就を私においても成就してください 」と祈ることが極めて大事です。

10月7日(火) ヨハネによる福音書13章36節~38節
 「 わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる 」(36節)。弟子たちはここまでイエス様について来ました。しかし最後の晩餐のあと、これから先はついて行くことはできません。受難と十字架の道、その道は神であり、同時に人でもある救い主イエス様だけが歩むことのできる道です。その耐え難い茨の道を歩み抜いて、主は私たちのために栄光の道を開いてくださるのです。私たちは主が開いてくださったその道を「 あとで 」ついて行くことができるようになるのです。イエス様の歩まれたあとに、私たちの行くべき道がはっきりと現れてきます。おじけずくことなく、私もついて行けると信じましょう。たとえ、困難が待ち受けている私の道であっても・・・。

10月8日(水) ヨハネによる福音書14章1節~14節
 「 心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか 」(1節、2節)。この御言葉は、人が召されたときに、牧師が遺族の前でよく読む御言葉のひとつです。イエス様の苦難、十字架、復活、そのすべてはただひとつの目的をもって行なわれました。それは、私たちのために父の家に場所を用意するためでした。私たちの場所は用意されているのです。私たちの死は、行き場所も分からないまま暗闇に放り出されてしまうようなものではないのです。行き先が用意されている死なのです。だから、心を騒がせずに、信じることによって、悲しみの中にも平安が生まれます。私たちキリスト者は大きな平安に支えられて、愛する者との別れの悲しみを味わうのです。

10月9日(木) ヨハネによる福音書14章15節~31節
 「 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる 」(14章19節)。生きている屍という言葉があります。もはや死んだも同然と思われる状況になることが人にはあります。しかしイエス様を信じる者は、そのような時でさえ、なお生きることができます。生きる力の根拠が私たちの中にあるのではなく、イエス様ご自身の中にあるからです。イエス様が「 わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる 」と宣言してくださるからです。私たちが頑張っているから、私たちは生きているのではありません。イエス様が生きて働いていてくださるから、私たちは生きているのです。ですから私たちに望みがなくなってしまうことはないのです。

10月10日(金) ヨハネによる福音書15章1節~17節
 「 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ 」(16節)。この御言葉は、信仰生活の急所をとてもよく表しています。信仰生活は、自分の選びが基準になっている信仰から始まり、神の選びが基準となる信仰へと移行して行く(深まって行く)ものです。たとえば、礼拝に行く、何かの奉仕をする、捧げ物をするのときに、この奉仕が好きだからするとか、今日の礼拝は期待できそうだから行くとか言うのは、自分の選びが基準になっていますが、神が私を礼拝に招いておられるから行くとか、神がこの奉仕に召しておられると思うから引き受けるとか言う場合は、神の選びが基準になっています。信仰生活は自分の選びから神の選びへと決断の基準が移行して行くものです。そのとき、あなたの信仰はより深まり、さらに深い恵みの世界に生きるようになります。

10月11日(土) ヨハネによる福音書15章18節~27節
 「 僕は主人にまさりはしない 』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい 」(20節)。信仰生活において、様々な困難やつらいことに私たちは遭遇します。行き悩むこともしばしば起こります。しかしそのとき、イエス様は「 わたしが言った言葉を思い出しなさい 」と言ってくださっています。私たちが経験するいかなる困難も、私たちを救うためにイエス様が味わわれた困難には決して勝っていないのです。ですから、私たちはいかなる困難のときにも、計りがたいイエス様の困難の「 」に守られているのです。そう信じてよいのです。

10月12日(日) ヨハネによる福音書16章1節~15節
 「 弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする 」(7節、8節)。人は誤りを正されることを好みません。自分の誤りをなかなか認めようともしません。しかし信仰者は弁護者であられる聖霊によって誤りを正される喜びを知ります。それは祝福なのです。

先週の説教要旨「 礼決められた道を走り 」使徒言行録20章13節~24節 

パウロは、当時の世界の中心ローマへと赴くことを神の導きであると信じ、一路ローマを目指している(19章21節参照)。一度エルサレムに戻り、そこからローマへ向かう計画を立てていたが、パウロはアジア州で時を費やさずに早くエルサレムに戻ろうとしていた(16節)。だがアジア州の教会のことが気にかかったパウロは、自分からエフェソには立ち寄らなかったが、代わりにエフェソの教会の長老たちにミレトスまで来てもらって、そこで伝えたい言葉を語った。そのことが17節から38節までのところに記されている。今朝は、その前半のところを読む。

この箇所には、伝道者パウロの生きる姿を実によく表している言葉がある。「 しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証するという任務を果すことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません 」(24節)である。人生の充実を感じさせる言葉だ。パウロは、御霊が導くままにエルサレムに行く。そこでどんなことが起こるのか分からないけれども、ただはっきりしていることは、どこに行っても投獄と苦難が待ち受けているということ。だがそれでいい。それが自分にとって決められた道だから、神が定めた道だから・・・と言う。しかし神の定めの道を行くパウロには、悲壮感とかあきらめというものは感じられない。パウロにとって、決められた道は自分の苦しみの中に見えてくるのでない。自分の涙の中に感じ取るものでもない。パウロは涙を流し、投獄と苦難の道を経験するだろうが、その中で語るのは福音、喜びの知らせなのである。悲壮感の中で語られる喜びは、相手には喜びとして伝わらない。喜びの知らせというのは、それを語る本人が喜んでいないと、喜びの知らせとはならない。パウロにとって、自分の決められた道を走るというのは、投獄や苦難があるけれども、一番深いところでは喜びに生かされている。そういう道。だから悲壮感ではなく、充実感があふれるのである。私たちの人生を充実させるものは、仕事、勉強、スポーツ、趣味、恋愛、奉仕、旅行など、決して少なくない。しかしこのパウロの姿から私たちが感じることは、そういうものではない、もっと別のものが私たちの人生を充実へと導くということではないだろうか。多くの人は困難がないことがその人生を幸せに、そして充実したものにすると考えている。しかしたとえ投獄があり、困難があったとしても、それらを貫いて人生を充実させてくれるものが確かにあるのだ! アメリカで黒人解放運動を行なったマルティン・ルーサー・キング牧師が暗殺される前日に行なった講演は、まさにパウロと同じ充実感を漂わせている。死を予感しながら語られたものであるが、気品を漂わせる生の充実ということを思わされる。一体何が、彼らを充実させていたのか。パウロは、そういう人生のありようを「 走る 」と表現するのだが、何が彼らをして、そのように走らせていたのであろうか・・・。人間的情熱でそれができないことは言うまでもない。福音を伝えなければならないという義務感、それも違う。

太宰治の作品に『 走れメロス 』がある。暴君を暗殺しようとして捕まった正義漢メロスは死刑に処せられることになる。しかしメロスには妹の結婚式があり、それで3日間だけの猶予を願い、必ず帰るからと言い、友人のセリヌンティウスを人質として王に差し出す。人を信じていない王は、これはおもしろいとメロスの申し出を受け入れる。無事に妹の結婚式を済ませたメロスは、友が待っている王城に戻るため、走る。様々な困難、誘惑に打ち勝ってメロスは走り続け、ついに友との約束を果す。メロスを走らせたのは、彼の剛健な体力ではなく、彼の義理堅さでもなかった。そうではなくて「 信頼されている 」(友に)ということであった。同様に、パウロを走らせているものは信頼、神がパウロを信頼しておられるということなのである。かつて、パウロは教会を迫害する人間であった。神に敵対してしまっていた人間、そのパウロが今では、神に罪赦されるばかりか、信頼され、福音を伝える人間として福音を委ねられている。罪人を義人とみなす神の信頼、その信頼こそがパウロを走らせる。私たちの人生を充実させるものは、決して少なくはない。しかし私たちの人生を真に充実させるものは、神の愛なのだ。神があなたを愛し、あなたのことを深く信頼し、あなたにしかできない働きを託してくださっている。それが充実を生む。人間には、神だけがそこを満たすことのできる「 内なる部屋 」がある。そしてその部屋が人生を生きる上で決定的な意味を持っているのでる。

 金曜日、清瀬の喜望園に武井百合子姉を数人で訪ねた。結核患者の療養施設として都が建てた施設である。聖餐を伴う小さな礼拝をした。マタイ13章の真珠商人の話をした。高価な真珠をひとつ見つけると、持っているものを全部売り払い、そのひとつを買う。神様にとって、武井さんは高価の真珠のような宝。自分の持ち物のすべてを差し出しても、ご自分の独り子イエス・キリストの命を差し出してでも、手に入れたい、武井さんは神にとってそういう存在なのですよと話すと、「 そんな、もったいない 」と言われた。それじゃ赤字の取引だと・・・。しかし神はその取引をされる。パウロもまた、なんともったいないと思っていただろう。しかしそれが彼の走る原動力なのである。私たちもそうなのだ。 (2014年9月28日)