2014年6月10日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月9日~6月15日

6月9日(月) テモテの手紙Ⅰ 1章12節~17節
  「 わたしは、罪人の中で最たる者です 」(15節)とパウロは語ります。これは、罪人の中で、自分が一番偉いというのではなく、誰よりもキリストの救いを必要としている人間であるというパウロの自覚による言葉です。テモテの手紙はパウロの晩年に書かれたものですが、それよりはるか以前に書かれたコリントの手紙第一では、パウロは「 わたしは使徒たちの中で一番小さな者であり 」(15章9節)と言っていました。パウロは長く生きる中で、その罪人意識が深められていったと言えます。神に聖められている人間ほど、実は罪に対する意識は強くなります。罪に敏感になるからです。ですから、成長することは決して傲慢や高ぶりとは結びつきません。罪意識は、キリスト者としての自己成長を計る一つのバロメーターです。

6月10日(火) テモテの手紙Ⅰ 1章18節~20節
 「 ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました 」(19節)。自分は大丈夫か?と恐ろしくなる言葉です。しかし、パウロは、「 神を冒涜してはならないことを学ぶために、二人をサタンに引き渡した 」と言ってのけます(20節)。まるでサタンは、敵というよりもパウロのお仕置き部屋、不届き者の一時預かり所のようです。そうです。サタンは、彼らが悔い改めたら、いつでも彼らを神の元に手放さなくてはならないのです。悔い改める自由を大事にしましょう。

6月11日(水) テモテの手紙Ⅰ 2章1節~7節(Ⅰ)
  祈りの勧告の中で、王や高官、すなわち為政者たちのために祈るように勧められています。米国では新しい大統領が誕生すると、大統領主催の朝食祈祷会が世界中の著名なキリスト者を招いて行われます。いろいろな動機があるのでしょうが、為政者のために祈ることを重んじて、この聖書の言葉を実践しているとも言えます。2節に「 平穏で落ち着いた生活 」とありますが、すべての民がそういう生活をするには、この地上に神の御心が行われることを求めて行くことが必須条件です。為政者が少しでも御心にかなうことを行うように祈ること、それはとても大事なことです。「 御心が天で行われるように、地でも行われますように 」という主の祈りの心を知れば知るほど、為政者のために祈らざるを得なくなります。

6月12日(木) テモテの手紙Ⅰ 2章1節~7節(Ⅱ)
神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます 」(4節)。神が最も喜ばれるのは、神の望みを私たちの望みとすること、神の心を私たちの心とすることです。神と人との唯一の仲介者であるイエス様(5節)は、神様の心を私たち人間にはっきりと、身をもって示してくださいました。讃美歌に「 キリストのように考え、キリストのように思う 」という歌詞があります。私たちが生活の局面で出会ういろいろな場面において、いつも「 イエス様だったらこの場面で、どうされるだろうか 」と立ち止まって考えてみることは大事ですね。

6月13日(金) テモテの手紙Ⅰ 2章8節~3章1節
 テモテの牧会するエフェソの教会では、男性よりも女性の方が多く、当然活躍する女性も多かった。それだけに、難しさもあったようです。ここでは婦人への戒めが目立ちますが、エフェソの教会の状況を反映してのことでしょう。この教会には、無益な議論に熱中したり(1章4節)、子どもを産み、育てることに意味を感じなくなったり、教会のことに熱中し、没頭し、家庭を顧みない婦人たちがいたようです。信仰と愛と清さを保つことは(15節)、子を産み育てる賢い母として生きることによって具体化するのではないか?とパウロは問うのです。神に造られた一番の賜物をまず大事にすることを見失ってはいけない。男であり、女であり続けることは易しいようで難しい。神に造られた者として、男も女もそれにふさわしい清さを身に着けようと勧めるパウロ。そのためにも主がとりなしていて下るのですから。

6月14日(土) テモテの手紙Ⅰ 3章1節~7節(Ⅰ)
  テモテの手紙が書かれた時代の教会は、大勢の信徒が与えられ、それに伴う組織化が進められていました。人間の体が多くの器官から成りつつも、一つの命をしっかりと維持するための秩序を持っているのと同じように、教会もまたそれにふさわしい組織/秩序が必要です。ここでは、指導者としての監督の資格について考えています。「 一人の妻の夫であり 」(2節)という条件は、解釈の上で問題のある箇所で、これを根拠に婦人長老を認めない立場の教会もあります。しかし、必ずしも一夫一婦制が確立していたわけでもない時代背景を思えば、これは一人の人に誠意を尽くして生きる姿勢を問うもので、ただお一人の神様にお仕えする信仰の心と深く関わることです。そこでは男女という性による区別はありません。

6月15日(日) テモテの手紙Ⅰ 3章1節~7節(Ⅱ)
 4節に「 自分の家庭をよく治め、常に品位を保って子供たちを従順な者に育てている人でなければなりません 」とあります。品位と訳された言葉は、原文ギリシャ語では「 値打ち 」という意味の言葉です。親が自分自身の人間としての値打ちを保って、子どもを育てるとき、子どももまた自分の値打ちを見つけ、それを尊び、自分で自分を卑しめてしまうことのないようになります。パウロは、自分の品位を保ち、子どもたちに品位を持たせる家庭を築く心こそ、神の教会を世話する心に必要だと見ているのです。神の教会のお世話は、相手の尊厳と自分自身の尊厳とを十分に心得ている人間が初めてすることができる働き、と言うことなのでしょう。 

先週の説教要旨 「 偶像あふれる国で 」 使徒言行録14章1節~20節 

 イコニオン、リストラ、デルベ、パウロが第1回伝道旅行で巡った地域は今日のトルコの地域。当時はギリシャの神々が信仰されている、いわば日本のように偶像あふれる国であった。そういう地域で伝道をするのは簡単なことではない。その上、同胞であるユダヤ人たちが伝道の邪魔をした(2節)。しかしパウロたちはそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語ったと言う。主が彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証ししてくださったからである(3節)。主は彼らの伝道を根底から支えていてくださった。彼らの語ることが真理の言葉であることを主自ら証明してくださり、言葉だけでなく、しるしをも与えてくださったのである。私たちの語る福音の言葉を主自らが真理の言葉として証し、聴く者の心に届けてくださる。その主の御業という支えがあるからこそ、私たちは伝道できるのだ。今日の午後、病床洗礼を受ける手塚英二さんはまさにその主の御業の賜物だ。
 パウロたちはユダヤ人の迫害を逃れてリストラに行った。そこでも奇跡が起きた。説教を聴いていた足の不自由な男が癒された。それ自体は素晴らしいことだが、これが直ちに奇妙な混乱を生む。これを見た人々は、2人を神の使いだと思って、いけにえを捧げようとした。ゼウスとヘルメス、ギリシャの神々は人間の姿をとって人々を訪ねることがあるという伝説が行き渡っていたからである。そこでパウロとバルナバは人々の中に飛び込んで行き、説教をする。このときのパウロの説教は、異邦人への説教の模範として丁寧に学ばれることがあるが、その要点は15節の「 このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように 」である。分かりやすく言うと、信仰を持つということは偶像を離れて生ける神に帰ることなのである。真の神は、人間が作り出したものではなく、反対にすべてのものを造られた方。あなたがたが気づかなくても、神は自然の営みを通して、あなたがたを支えていてくださるのだ。その神の元に帰ろうとパウロは呼びかける。創世記の天地創造の御業、その創造の順序は、他者への依存度を現す。他者への依存度の高いものほど、あとに造られている。人間が最後に造られたのは、他のどんな被造物よりも人間が他者に依存しなくては生きられない存在であることを現している。それらの他者の根底に神がおられるのだ。神は根底から私たちを支えられる方である、天地万物の創造の御業はそのことを示しているのである。その神のもとに帰ることが信仰。
  ところで、偶像とまことの神との違いはどこにあるのだろうか。今朝はイザヤ書45章20節~46章4節までを合わせて読んだが、この箇所は、偶像と真の神の違いを明瞭に語っている箇所のひとつである。ここには有名な御言葉、「 あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す 」がある。結局、イザヤ書によれば、偶像というのは人間が背負っているものであり、そして遂には人が支えきれなくなり、人の重荷になってしまうものなのである。反対に真の神は、人を造り、人を支え、最後まで背負ってくださる方なのである。誰でも、子どもの頃、おんぶをされた経験があろう。私は幼稚園のとき、たき火の燃えかすに足を突っ込み、足に大火傷を負った。幼稚園が好きだった私は、毎日母に背負われて医者に通い、そのあと幼稚園に届けてもらった。母の大きな背中の感触は、母の愛そのもの。中学まで足に残った火傷のあとは、母の愛の証として多感な時期を過ごした時の支えとなった。かつて教会のある人に自分の生い立ちを話したら、「 よく非行に走らなかったね 」と言われたことがある。決して良い家庭環境ではなかったのである。自暴自棄になって非行に走りそうなギリギリのところで踏み止まれていたのは、母の背中に背負われた体験があったからだと思う。後に、信仰を持ってイザヤ書のこの御言葉に触れたとき、私は神の愛がどういうものであるか、自分の体験と響き合ってとてもよく分かった。神はあのように愛してくださっているのだと。つらい出来事に直面し、すべてを投げ出したい思いにとらわれるとき、そこに主の言葉が響いてくる。「 わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す 」と。だから投げ出さなくてもいい。あなたは大丈夫。私たちはそこで踏み止まるのである。
  しかし偶像には人を背負うことはできない。日本人は戦争中、現人神を必死に支えた。しかし遂に支えきれなくなったとき、偶像は若者たちの肩に重くのしかかり、人間魚雷、特攻隊という形で、若者たちの命を奪ってしまった。偶像がその本当の姿を現したのだ。偶像は自分が生きるために他者の犠牲を要求する。偶像・・・神よりも大切なものは何であってもが偶像なのである。財産、地位、能力、時には健康、家族でさえ、偶像となり得るのだ。それらのものは、最初は私たちを支えてくれるが、それが失われようとするときに、その偶像としての姿を現す。しかし真の神はあの十字架において、その本当の姿をはっきりと現された。私たちを造られた神は、自らを犠牲にしてでも、私たちを背負い続ける神。自らを犠牲にして、私たちを生かす神。この神のもとに立ち帰り、この神に背負われて生きよう。パウロを通して、真の神ご自身が私たちにも語りかけておられる。(2014年6月1日)