2014年6月1日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月2日~6月8日

6月2日(月) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章1節~12節(Ⅰ)
  第二の手紙が書かれた理由を読み取れる箇所です(2節)。ある人たちは主の再臨がもう来てしまったと思い、慌てふためいて分別をなくしたのです。分別というのは、見分けることができると言うことです。同じひとつの現実を見ても、そこに神の支配を見られる人もいれば、神の支配などまったく見ようともしない人がいます。パウロは現実の世界の中で、神の見えない支配をきちんと見られる、見分ける力を持つように、と勧めています。一見して人間が作り出しているように見える日々の出来事、大きくは歴史の中に、人間の思惑を超えた神の支配が働いていることを信じるのです。そこに慌てない生活も生まれるのです。

6月3日(火) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章1節~12節(Ⅱ)
  信仰の誘惑の一つは、真理を喜べなくなるということです。神の教えよりも不義を喜んでしまうのです(12節)。サタンにそそのかされて真理を愛せなくなるのです。神が私に求めることは難しいことばかりで信じることがつまらないとか・・・・。神の真理を愛さなくなる時、私たちは自分を神としているのです。アダムとエバを襲ったように、サタンは「 自分が神になればいい 」とそそのかします。真理を心から愛する生活が、不義を愛する生活に打ち勝つように祈りましょう。

6月4日(水) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 2章13節~17節
  「 あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです 」(13節)。神の選びの業が語られているところで、「 真理に対するあなたがたの信仰とによって 」と言った具合に、神の選びに私たちの信仰が関わっていることが語られています。私たちの側の信じるという行為がなければ、神の選びは全うしなかったのです。これは神の選びの不完全さと言うことではなく、神はいつもそのようにして、私たちが神の御業を信じて受け入れることを待ち、かつ期待しておられると言うことです。一方では神のご計画があると知りつつも、もう一方では私たちが神に願い祈るのも、同じ信仰理解に基づいてのことです。だから祈りましょう。

6月5日(木) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章1節~5節
  パウロの手紙には、伝道者(パウロも含めて)のために祈ってほしいという言葉がよく出てきます。人を信仰に導くのは、人間には不可能なこと、神の御業です。それだけに神の言葉を語る伝道者の拙い言葉を通して、神が御業をなしてくださるようにと、伝道者のために祈ってくださいと言わざるを得ないのです。悪人に対しても信仰がない人にも(2節)、神の愛が勝ってくださるように(5節)。この世が神の愛の勝利に救い取られる日を一日も早く与えられるように。そのためにも、伝道者もそれを聞く信徒も、あなたが命じて下さっていることを実行し続けることができるように(4節)。そこに喜びを見出すことができるように、と祈るのです。

6月6日(金) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章6節~15節
 「 自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい 」(12節)とパウロは勧めます。テサロニケ教会の人たちは、主の再臨、すなわち世の終わりが近いと思い、落ち着かず仕事に手がつかなくなったのです。落ち着いているには、自分の居場所を、自分が今何をすべきかを知っている必要があります。しかし落ち着いてパンを得るために一生懸命働こうと言うのは、パンを得るために働いている仕事を受け入れている人でないとできません。つまらない仕事だと思っていたら仕事に身を入れることができません。パンのために働くなんて何とつまらない、となってしまいます。ここでは、働くことの尊さを知りなさいと言っているのです(マタイ6章34節参照)。これは信仰に根差して、主から初めて教わることです。「 日毎の糧を与えてください 」と祈るように言われた主が教えてくださることなのです。

6月7日(土) テサロニケの信徒への手紙Ⅱ 3章16節~18節
  手紙の最後は、祝福で終わっています(16節)。教会によっては祝祷と呼んでいますが、これは祈りではありません。祝福は、すでに主が私たちと共にいてくださると言う祝福を確認しているようなもので、祈りのように祈ってもそうなるかどうか分からないと言うものではないのです。そこにもう祝福があるのです。私たちの教会の礼拝も最後は祝福です。新しく始まる1週間の生活に祝福があるようにと祈っているのではなく、すでに私たちは祝福の中に置かれていて、その祝福に支えられて、祝福から1週間の生活に出て行くことを確認しているのです。

6月8日(日) テモテへの手紙Ⅰ 1章1節~11節
 テモテの手紙は、テトスの手紙と並んで牧会書簡と呼ばれています。つまり、牧師の務めについて教えている手紙なのです。この手紙はパウロからテモテに宛てて書かれました。若い伝道者テモテは、エフェソ教会の牧師でした(3節)。エフェソの教会は、病んでいる教会でした。教会の病みは、いつも教会が健全な教えに立てなくなることから始まります。何を教え、何を語り、何を神の言葉として聞くか?牧師はその責任の多くを担っています。教会を病ませる教えが入り込んで来た時、牧師はそれを見抜いて素早く断ち切らねばなりません。教会の健やかさを保つために、神の言葉を正しく聞き、正しく語ることを崩してしまうような知恵や言葉(例えば、先祖の祟りとか)に心を誘われてしまわないようにしましょう(4節)。

先週の説教要旨 「 誰が主の言葉を聞くか 」 使徒言行録13章42節~52節 
 この箇所には、先週読んだパウロの説教を聴いた人たちが、どういう応答をしたかが記されている。その応答は2種類、受容と拒絶である。42節から44節には、受容した人たちの様子が記されている。会堂での集会が終わった。パウロの話に心を動かされた人たちは、集会が終わった後もパウロたちと語り合った。パウロは彼ら似神の恵みの下に生き続けるように勧めた。そして次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。これらは、福音の受容という肯定的な応答である。しかし、皆が喜んで聞いたわけではない。全く反対の応答、すなわち福音を拒絶した人たちもいた(45節、50節)。それでパウロは、ユダヤ人への伝道から異邦人への伝道へと移って行く。それは主が命じておられる通りであると言って・・・。使徒言行録は、これらの福音の受容と拒絶の姿を、実に驚くべき言葉で言い表している。「 そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った 」(48節)。彼らが信仰に入ったのは、救いに入るように予め神に定められていたからだと・・・。これは「 予定 」と言われる教えのひとつであって、私たちのように長老改革派教会に属する教会は、この「 予定 」という教えを大切にする。この箇所は、そのひとつの典拠とされる箇所なのである。そうとすれば、福音を拒絶した人たちに関しては、救いに定められていなかったからだと言うかと思うと、そうは言わない。「 あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている 」(46節)。この「 値しない者にしている 」は、原文ギリシャ語では「 値しないものであると言う判決を自分で自分に下した 」となっている。つまり、そっちを選んだのは自分の責任だと言っているのである。信じた者に関しては、神が救われるように予め選んでおられたからだと言い、他方拒絶した者に関しては、自分自身の責任でそっちを選んだのであると、聖書は言うのである。こういう言い方をされると、私たちの頭は混乱する。論理的に整理がつかないし、感情的にもすっきりしない。しかし聖書は、神の予定と人間の自己責任という、相反する事柄を並べて、両方とも真理として提示するのである。
 この予定の教えは、すべてのキリスト教会が受け入れているわけではないが、長老改革派の教会は、この神の予定という真理と、人間の責任という真理を、そのまま両方受け入れる。それを両立主義と言う。人の理性では相反している真理(二律背反とも言う)を両方とも、アーメンと言って受け入れる。この両立主義は、キリスト教信仰の核心部分においても、求められる信仰の姿勢なのである。神は三位一体であるという真理、キリストは全き神であると同時に全き人でもあったとする真理、いずれも両立主義に立たなければ受け入れることはできない真理である。聖書は、その核心部分において、人間の理性を脇においてでも、神が主張されていることならば、それを正しいとして受け入れます、と言う姿勢を人に求めるのである。
  予定の教えに関しては、長い教会の歴史において議論が繰り返されてきており、その議論は今も続いている。予定の教えに反発を感じるのは、選ばれる人がいるのは不公平だと感じるからであろう。しかし注意しないといけないのは、聖書は二重の予定を教えてはいないことである。救われる人が決まっていて、滅びる人も決まっているとは、聖書は言わない。救いの道を求めないのはあくまでも人間の自己責任によるのである。滅びに予定されている人がいるという教えは聖書の中にはない。それどころか、誰でも私のところに来なさいというイエス様の招きの言葉が記されているではないか(マタイ11章)。そこに人間の側の責任を抹殺する、消し去るような教えは聖書にないのである。
 予定の教えは、私たちに慰めと励ましをもたらす。年を重ねて、自分の思うように信仰生活を送っていけなくなることがある。こんなんじゃ自分はもう信じているとは言えないんじゃないか・・・そこには悲しみ、痛みに共感しつつ、私たちは「 大丈夫。あなたの救いは神が定めておられることですから、あなたの今の状況によって、救いが取り消されることはないのですよ」と言ってあげられるし、信じているのだけれども、周りの状況が整わなくて・・・という人にも、「 神が定めておられるのだから、必ずその時は来ますよ 」と言ってあげられるのである。伝道においても、予定の教えは私たちに励ましと勇気を与える。私たちは、自分たちが一生懸命伝道して、自分たちの力で回心する人を生み出していくのだ、それができるかどうかは、私たちの伝道力にかかっているのだと言われたら、それはものすごいプレッシャーである。だか、神は予め救われる人を用意していてくださり、私たちは「 イエス様の十字架と復活 」、福音という「 合い言葉 」をそこに投げ込んであげれば、定められていた人たちは必ずそれに反応し、肯定的に応答するのである。伝道とはそういうことなのだと言われたら、私たちは過剰な責任感から解放されるであろう。その時、私たちの責任は、正しくキリストの福音を語るという点に集約される。世の人々には愚かに聞こえる十字架の言葉(Ⅰコリント1章18節)を臆せず、大胆に語れば、それで良いのである。誰が主の言葉を聞くか・・・、神は確かにその言葉を聞く人たちを用意してくださっているのだ。  (2014年5月25日)