2014年5月11日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月12日~5月18日

5月12日(月) 詩 編 148編1節~14節
  「 主を賛美せよ 」という呼びかけが続きます。詩編は、実際に歌として歌われたものですから、この辺りはどのように歌ったのか、知りたくもあります。ところで、7節、8節の「 地において主を賛美せよ。海に住む竜よ、深淵よ。火よ、雹よ、雪よ、霧よ、御言葉を成し遂げる嵐よ 」の「 火よ、雹よ、雪よ、霧よ 」というのは、異変のことを指しています。異変は、私たち人間を不安に陥れ、私たちに恐怖を引き起こします。何もかもが駄目になってしまうと思うのです。しかしどんな異変が起こっても・・・必ず異変は起こりますが・・・それらは壊すためのものではなく、神の御言葉を成し遂げるためのものであると聖書は言います。神の摂理の外でではなく、それも神の摂理の内で起こっているのです。だから安心していい。

5月13日(火) 詩 編 149編1節~8節
  「 踊りをささげて御名を賛美し、太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ 」(3節)。こういう言葉を読むと、ユダヤ人の賛美は幅が広いなあ~とつくづく思います。子どものころ、よく盆踊りに行きました。体育祭では、なぜか、盆踊り(柏踊り)を踊らされました。体全体で喜びを現すという点では、「 キリスト教音頭 」があってもいいのかもしれません。ところで、「 主は御自分の民を喜び、貧しい人を救いの輝きで装われる 」(4節)と言われています。神に対して「 へりくだる 」ことによって、人は神から力と励ましを受けることができます。神の御前に、素手で無防備である者を神は決して見捨てられないのです。これが音頭を生む喜びですね。

5月14日(水) 詩 編 150編1節~6節
  ついに詩編を読破します。長かったですか。長かったですよね。でも、ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。読みにくい時も一杯あったと思います。皆さんの忍耐に感謝です。さて、「 いかに幸いなことか、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人 」(詩編1編1節~2節)という語り出しで始まった詩編は、「 息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ 」(6節)で結ばれています。私たちの人生は、口ずさむ生涯として期待されています。主の教えを、そして主への賛美を、口ずさみつつ、歩み抜くのです。あたえられた己が生涯を。どうぞ、口ずさんでください。お料理しながらでも。何しながらでも。

5月15日(木) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 1章1節
  テサロニケの信徒への手紙は、新約聖書中では最も古い文書と言われています。テサロニケ教会の誕生の次第については使徒言行録17章に詳述されていますが、パウロが3週間滞在したことによります。しかしそこのユダヤ人は、ねたみに燃えて暴動を起こしたので、パウロたちはその日の内に夜逃げをしたと記されています。そのようにパウロが十分に伝道できたわけでもなく、しかも敵対者が多い地域にあって、テサロニケ教会は短期間の内にパウロも目を見張るほど成長を遂げました(9節参照)。もちろん、この教会は問題を抱えていたことが手紙を読み進めていくうちに見えてくるのですが、それを差し引いてもなお、すばらしい信仰を持っていた教会です。「 信仰は試練によって磨き上げられる 」とは、確かなことなのです。

5月16日(金) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 1章2節~8節
  テサロニケ教会の人たちは、「 わたし(パウロ)に倣う者、そして主に倣う者となり・・模範となるに至ったのです 」(6節)。倣うとは、イミテーション、すなわちキリストの模造品になることです。テサロニケ教会の人たちを見ていると、その原型であるキリストが分かると言うわけです。これは「 素晴らしい 」の一言です。真理である神の言葉は、その真理を実際に生きている共同体の中でこそ、伝わって行くと言われます。真理を実際に生きている教会は、神の言葉を響らかせる共鳴体になるのです(8節)。それは教会の大小にはよらず、私たちにも起き得ることです。

5月17日(土) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 1章9節~10節
 「 あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか 」(9節)。誰もが皆、ここに記されたことを経験しています。神に帰る前、人は必ず何かをまるで神のように大事にして生きているのです。お金、権力、名声、などなど。しかし、私たちがそのように偶像に仕え、真の神に背を向けていたときに、神の方では私たちに身を向けていてくださった。それが明かになったのは主イエスの十字架への歩み、死人からのよみがえりでした(10節)。私たちが真の神に仕えるようになるために、神の方が先に私たちに仕えていてくださった。そこまで徹底した神の愛を聖書は私たちに告げています。

5月18日(日) テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章1節~12節(Ⅰ)
  パウロのテサロニケ宣教の様子を語っています。4節は、伝道者の誘惑を鋭く見抜いた厳しい言葉です。当時は他の宗教においても、伝道旅行のようなことが行われていました。人々の悩みを聞き、解決を与えるような言葉を語るのです。しかし、それはしばしば人々が喜ぶような上辺の平安を語るようなものが横行していたようです。人を喜ばせたいと思うことは、伝道者にとって大きな誘惑です。なぜなら人間には厳しいことは聞きたくない、優しい言葉だけを聞きたいと言う根深い欲求があるからです。パウロはそのような宗教家と一線を画します。パウロは神を喜ばせることを語ると言うのです。その場合、私たちの悩みの原因が罪に起因していると鋭く指摘することもあるでしょう。神の喜ばれることこそ、実は人間を真に喜ばせるものであり、人間の真の喜びは神の喜びを映すものに他ならないのです。

先週の説教要旨 「 神に栄光を帰す 」 使徒言行録12章20節~25節 
 私たち長老教会の信仰の生みの親となった宗教改革者カルヴァンは、のちに長老改革派教会の信仰のモットーとなった「 すべての栄光は神に 」ということを強調した。人間に栄誉が与えられるのではなく、栄誉は一切、神が受けるべきであり、神に向かってささげられるべき栄光が、人に向けられてしまうような、いかなるものは不要であると彼は考えた。私たちも長老教会に生きる者として、カルヴアンが大切にした「 一切の栄光は神に、神のみがほめたたえられるように 」という信仰の姿勢を大切にしたいと思う。今朝、与えられている聖書の箇所には、神に栄光を帰さないで、自分自身に栄光が帰されることに酔いしれ、あたかも、自分は神であるかのように振舞ったヘロデという王が登場する。「 ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである 」(20節)。ティルスとシドンの人たちは王の演説を聞いてあれは「 神の声だ。人間の声ではない 」(22節)と叫び続けた。王は、人々のそのような喚声に酔いしれた。イエス様が荒野でサタンの誘惑を受けられたとき、「 人はパンだけで生きるのではない 」と言われた、あの言葉を思い起こす。ここではパンで人を生かす、そのことのゆえに、自分が神と呼ばれることを喜んだこの世の支配者ヘロデが現れているのだ。人に食糧の入手経路を握られた人間は弱い。権力はそういう弱さにつけこんでくるし、つけ込まれた方も、そういう権力にこびた方が生きて行く上では、都合がいいのだと考えるようになってしまう・・・。しかしそこには、一切の栄光を神に帰すという姿勢は見られないのである。

ところで、なぜ人は神に栄光を帰さなければならないのか・・・。音楽とか、絵とか、本とか、デザインとか、そういうものにはそれを作った人には著作権という権利が与えられ、その作品にかかわる一切の栄誉は、その人が受けるべきであると言う法律がある。作った人に敬意をあらわす、それによって作者に栄光を帰す。それが著作権の基本的な考え方。それを聖書に置き換えて言うならば、この世界を造られた方は神。人も世界も、他の生き物も皆、神の作品。ならば、その造り主である方に、すべての栄誉が与えられるべきであって、それを造られた立場の人間が横取りすることは許されない。著作権の侵害になる。ヘロデはそれをした。

神はそのヘロデを撃った(23節)。彼の死は、本当に栄光が帰されるべき方の介入によるものであった。このように第12章は初めと終わりが非常に対照的である。権力者ヘロデがその権力を振るって、神の言葉を伝えていた教会を迫害し、その中心的指導者を殺すことに始まり、ヘロデは撃たれ「 神の言葉はますます栄、広がって行った 」(24節)という言葉で終わる。教会とヘロデの立場が180度ひっくり返っている。そのコントラストを通して、著者ルカは、本当に栄光を受けるべきお方、そしてこの世界を支配しておられるお方は、この世の王ではなくて、神ご自身なのだということを宣言している。教会も、この世の権力者も、皆、同じ神のもとに身をかがめなければならない。この方に栄光を帰さなければならない。しかしキリスト教の歴史は、国家との権力の争いの歴史となってしまった。本当は、教会は国家と共に、神の権威の前に身をかがめなければならなかった。それなのに、この世の権力者と張り合ったり、あるいは結託して、神の権威を隠してしまうようなことをしばしばしてきたのである。しかし、この方に栄光を帰し、この方の御前に身をかがめることを知っているならば、教会は強い。ヘロデのようなこの世の権威者が剣を振り回したら、死んでしまうような力なき者でしかないかも知れないが、そのような教会を神は守られる。だから強いのだ。私たち信仰者ひとりひとりも強い。神に栄光を帰すことを知っているならば・・・。

しかし、時としてその神の守りというのは、私たちの期待した通りに現されるとは限らない。ヘロデが撃たれて死ぬとか、ペトロが奇跡的に救出されるとか、そういうことばかりではなく、時にはヤコブの殉教というような事態も起こる。それは神の支配、神の勝利が今はその一部しか現れていないからなのである。しかし世の終わりの時には、ここで垣間見られた神の支配が完全に現れ出るようになる。もし信仰者がそのゴールをしっかりと見定めているならば、ヤコブの殉教があっても目先の不幸にとらわれてフラフラしないようになる。忍耐強くなる。信仰がまだ幼いと、どうしても目先のことでもって、神の祝福や神の守りを計ろうとしてしまう。しかし信仰が成熟すると、最後のゴールの地点を見定めているようになるので、目先の不幸があっても、このことも神の圧倒的に勝利に至る途上の出来事なのだと、どっしりと構えて受け止められるようになる。使徒パウロは言った。「 わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます 」(Ⅱコリント4章17節)と。私たちは、神の支配がどんな時にも貫かれていることを信じよう。本当に栄光を帰されるべき方の支配が、その現実を貫いていることを。やがて、その神の支配はすばらしい栄光を帯びて現れ出ることを信じよう。そして、その神に栄光を帰す生き方をしよう。(2014年5月4日)