2014年5月4日日曜日


 
成瀬教会 <聖書日課>  5月5日~5月11日
5月5日(月) 詩 編 141編1節~10節
  「 わたしの祈りを御前に立ち昇る香りとし、高く上げた手を、夕べの供え物としてお受けください 」(2節)。ユダヤ人は神の御前に日々、香ばしい香をたきました。私たちキリスト者は、全焼のいけにえの香ではなく、悔い砕けた魂の祈りを神への香として捧げます。神は砕かれた魂から立ち上る喜びと感謝と賛美の香を軽んじられません。人は皆、人生の臭いを漂わせているものです。お金の臭い、インテリ臭い教養の臭い、誇り高ぶった臭いをぷんぷんさせている人がいますが、それは鼻をつまみたくなる臭いです。私たちはパウロの言う「 キリストを知る知識の香 」をほのかに漂わせましょう。それは砕かれた魂が放つ「 愛と赦し 」の香です。
5月6日(火) 詩 編 142編1節~8節
  この詩編はダビデがサウルの手を逃れ、ほら穴で歌ったものであることを表題は告げています。「 わたしの叫びに耳を傾けてください。わたしは甚だしく卑しめられています 」(7節)。人に馬鹿にされたとか、見下されたとか、無視された感じることはありませんか。それは嫌なことですが、しかし実際は単なる被害者意識に過ぎなかったということが多いのではないでしょうか。人はあなたをそんな馬鹿にしたり、無視したりしてはいません。他人はそれほどまでに、あなたに関心を寄せてはいないのです。あなたの心にあるひがみが、そう感じさせているだけなのです。もし仮にそれが本当の場合でも、主はあなたのことを心から愛し、その価値を認めていてくださいます。なぜなら主は、「 あなたはわたしの避けどころ、命あるものの地でわたしの分となってくださる方 」(7節)なのですから。
5月7日(水) 詩 編 143編1節~12節
  「 あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のようなわたしの魂を、あなたに向けます 」(6節)。両手を広げるというのは、祈る姿勢を示しています。自分を明け渡す姿勢でもあります。祈る者は、罪深い自分をさらけ出して神に向かいます。「 御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません 」(2節)とあるように、自分の心の奥にあるものを隠したままで祈る必要もありません。なぜなら、祈りは単に嘆願ではなく、すべてをご存知であられる神との出会いだからです。祈る人は渇いた大地のように、ひび割れたまま、天に向き合っています。ひび割れた自分の人格をさらけ出すようにして。神の恵みはそのひびに染み込みます。
5月8日(木) 詩 編 144編1節~15節
  「 主よ、人間とは何ものなのでしょう。あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう。あなたが思いやってくださるとは 」(3節)。この言葉は、あまりにも人間という存在が恐ろしい、何をするか分からない、という嘆きの中で歌っているものではありません。むしろ、何をするか分からないような罪深い存在でありながら、神がこれに目を留めてくださるということへの驚嘆を歌っているものです。神は暗闇の中にうごめく黒いアリでさえ、それをきちんと見極められる方です。私たちのことも同様にすべてを知っておられます。しかしそれでいて、「 わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し 」ている(イザヤ書43章4節)と言われる方です。
5月9日(金) 詩 編 145編1節~21節
  「 主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます 」(14節)。人は倒れます。人が倒れずに前進し続けることはできません。行き悩み、倒れて人間の限界を思い知らされることしばしばです。しかしそこでこそ、神の力が働きます。いや、神の力はいつも働いているのですが、そのときになってようやく、はっきりと、神の力が人の目に現れてくるのです。霧が晴れて・・・。だから私たちは倒れてもいいのです。倒れるときは、神の手の中に倒れましょう。歩き疲れたら、神の御手の中にかが見込みましょう。神は受け止めてくださいます。倒れてもいい。倒れることが出来る。それが信仰者の慰めです。
5月10日(土) 詩 編 146編1節~10節
  「 君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない 」(3節)。厳しい言葉です。思わず、世の政治の難しさを覚えます。人の欲と欲とが直にぶつかり合う政治の世界では、すべての人が喜べる最良の決め事などできません。人間には救う力はないと痛感させられます。しかし神は、「 天地を造り、海とその中にあるすべてのものを造られた 」(6節)のです。神は天と地と、海と、その中にあるすべてのものを創造されました。それは、ただ創造されただけではなく、この難しい世界の中に真実を行なわれるということであります。この世の波風が騒ぐ時にも、神の真実は決して途絶えることなく、貫かれていることを忘れないようにしましょう。
5月11日(日) 詩 編 147編1節~20節
  「 主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく、人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人 」(10節、11節)。「 」は軍馬のことを指し、力の象徴でありました。「 足の早さ 」は事に処する俊敏さを象徴しています。神は、人が軍隊の力を誇ることを好まれません。それゆえ、神は人に試練を与えられます。人間の持つ力や俊敏さでは根絶対に突破できない試練、この世の知恵と力に頼り、巧みに動こうとする者が行き詰まり、神を信じて動かない者が道を見出せる試練を。そのようにして神は、人間が信仰に目覚めることを期待し、待っておられるのです。試練を試練で終わらせてはなりません。
 

先週の説教要旨 「 神の真実に励まされ 」 使徒言行録12章1節~19節 
 使徒言行録を読み続けているが、使徒言行録に描かれている教会の姿というのは、何よりも祈る群れである。ペンテコステの日に聖霊が降る、そのときも祈るために集まっていたところに聖霊がくだった。ペトロが異邦人伝道へのきっかけとなった幻を見たのも、彼が祈っているときだった。そのように、使徒言行録は教会というのは何よりも祈る群れであることを繰り返し伝えて、その祈りから聖霊の導きによる展開が生まれることを語っている。今朝、与えられている使徒言行録第12章も祈る群れとしての教会の姿が描かれている(1節~5節)。

 エルサレムの教会はすでに、ステファノという大切な指導者を失っていたが、ここでは続いてヤコブの殉教が伝えられている。ヘロデ王が教会に対する迫害を始め、とうとう自分たちの大切な指導者ヤコブを殺してしまった。ヘロデ王は、このことがキリスト者に敵意を持っているユダヤ人たちが喜んだのを見るや、王はいい気になって、教会の中心的指導者であったペトロをも捕らえて牢に入れてしまった。そこで教会の人たちは、集まってペトロが助けられるようにと、祈りを始めた。それは「 熱心な祈り 」であったと言われている。集まった人たちは、ヤコブが殺され、その上、ペトロまでもが殺されてしまったら、もうお手上げだ。こうやって相次いで中心的指導者を失うようでは、我々は立ち行かなくなると、不安を覚えた。教会は、いつもそうやって追い詰められる。教会だけではない。教会に生きる信仰者ひとりひとりも、自分の生活の中で、追い詰められるという経験をする。しかし、追い詰められるという経験は決して悲観的であるだけではない。なぜなら、私たちは追い詰められたら、祈らざるを得なくなるからだ。自分はまだ追い詰められていない、まだ何とかなると思っているところでは人はなかなか祈りに向かわないものである。自分の力で何とか乗り越えようと動くもの。しかしもう自分の力ではダメと思ったときには、やはり祈らざるを得なくなる。だから、追い詰められるというのは、神によって道を開いていただく、その引き金ともなるのである。

 10節のところに、ペトロが救出されたときの様子が書かれている。教会の人々の切羽詰った祈りに答え、神は天使を送り、ペトロを牢から救い出してくださった。 ペトロは、最初自分は幻を見ているのだと思っていたが、実際に街に通じる鉄門が、ひとりで開いて、そこを進んで行った時、天使が離れてペトロは我に返って、「 今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ 」と言った。鉄門がひとりでに開く・・・これが祈りに対する神からの答えであった。鉄門は、元来、町を守るために非常に頑丈に作られていた。押しても引いても、ビクともしないようながっしりした門。その門を、神が祈りに対する応答として開いてくださった。私たちの人生にもそのような経験があるだろう。どうしても動かない頑丈な門のようなものにふさがれる経験。行き詰ってしまってどうにもならない。進退極まる経験・・・。ペトロは、自分のために教会の人たちが祈っている母マリアの家に一目散に向かった。その途中、ペトロは「 今、初めて本当のことが分かった 」と言った。私たちにおいても、人生の鉄門が開くときがある。何をしても開かなかった門が、突然、開く。あなたの鉄門、それは何であろうか・・・。それはあなたが自分の力ではビクともしないと感じているもの、それはあなたが、これはおそらく無理だろうとあきらめかけているようなことである。しかしそれでいて、祈らずにおれないことなのである。ある人にとって、それは家族の救いであるかも知れない。ある人にとっては、それは健康上のこと、あるいは経済的なこと、家族のことであるかも知れない。しかしその鉄門がひとりで開くときがあるのだ。私たちもペトロのように、「 今、はじめて本当のことが分かった 」と言えるときが来る。しかしそれは、私たちの祈りを引き金としてなのである。

ペトロ救出の引き金となった祈りを聖書は「 熱心な祈り 」であったと伝えている。だが教会の人たちは「 この祈りは聞かれる 」という強い確信をどうやら持ってはいなかったようである。ペトロが戻って来たことを知ったロデは、そのことを祈っている人たちに伝えたが、彼らは「 あなたは気が変になっているのだ 」と言った。ある者は、ペトロを守る天使だろうとさえ言った。当時の人々には、ひとりひとりに天使が守護のためについていると信じていた。私たちの言葉で言えば、守護霊、幽霊である。残念なことに、教会の人々は祈りに応えてペトロが救出されたのだと信じるよりも、幽霊を見たのだと信じることの方がより現実的に思えというのである。教会が熱心に祈っているようでありながら、実際にはその祈りが聞かれるという確信を失ってしまっている。しかしそこで私たちを慰めるのは、そういう一番深いところでは、確かな思いを持っていなかったように思われる教会の祈りに、神が応えてくださっているということである。無理かなと、あきらめの心に揺さぶられながらも、それでも祈らないわけには行かなかった。まさかと思いつつも、祈り続けるより他なかった。その祈りを、聖書は熱心な祈りであり、その祈りに神が耳を傾けて聞いていてくださっている。これぞ神の真実。(2014年4月27日)