2013年2月3日日曜日

2013年2月3日 説教要旨


「 あなたに与えられている宝 」 ルカ19章11節~27節

ムナのたとえと呼ばれる、イエス様がなさったたとえ話を読む。これはタラントンのたとえ話によく似ている。主人が僕たちにタラント、あるいはムナを託して旅に出る。そして戻って来たときに清算が行なわれる。そのとき、託された物を用いた人と用いなかった人とがいることが明らかになる。双方のたとえ共に、同じストーリー展開を持っている。だが違う点もある。タラントンのたとえと違い、ムナのたとえでは皆、同じ1ムナを授けられている。皆、同じものが与えられている・・・果たして、この1ムナとは何を意味しているのだろうか。教会は伝統的にこれを神の言葉だと理解してきた。私たちには、神の言葉という宝が与えられている。私たちもこの理解に立って、このたとえ話を読んでみたいと思う。

 このたとえ話で私たちの関心を引くのは1ムナを布に包んでしまっておいた僕であろう。どうして彼は1ムナをしまいこんでいたのか。主人から「これで商売をしなさい」と言われていたにもかかわらず・・・。ひとつの理由は明確で、主人が怖かったからである(21節)。商売に行って、失敗して怒られることを恐れた。だからしまいこんだのである。しかしある人はこうも言う。彼は主人だけでなくて、世を恐れたのであると・・・。「しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた」(14節)。彼というのはこの主人。この主人は国民から憎まれていた。この僕たちは国民から憎まれていた主人の僕たちなのである。つまり、商売がやりにくいのである。「あの主人の僕たちか」と、名前を聞いただけで意味もなく憎まれる。商売としてこんなにやりにくいことはない。この僕はそれを恐れて、1ムナをしまいこんだままにしてしまった。

その気持ちは私たちにもよく分かると思う。イエス様は僕たちに、つまり教会に神の言葉を宣べ伝えるようにとの使命を与えて行かれた。ご自分が王になって再び帰って来るその日まで、教会は神の言葉を宣べ伝えながらイエス様の帰りを待っている僕。しかしすぐに体験するのは、神の言葉が鼻で笑われるということである。イエス・キリスト・・・私たちの主人の名前を聞いただけで何の根拠もなく、鼻で笑われる。そういう体験を一度でもすると、私たちもこの僕のように1ムナを包んでしまっておきたくなるのではないか。自分さえ、神の言葉を聞いていればそれでいいのではないか。自分さえ、潤っていればそれでいいのではないか・・・と。

 ある人は家族への伝道のために、教会から持ち帰ったプリントをしまわないで、家族の目につくところに置いておくのだと言う。すると家族はそれを手にとって読んでいることがあると言う。それもひとつの地道な伝道である。大切なことは、神の言葉を「しまっておかない」と言うこと。

 不思議なことに、このたとえ話には商売に行って失敗した人は登場しない。それは、彼らの力によって伝道されるのではなく、神の言葉自身が持つ力、それによって伝道がなされるものだからだ。「御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました 」と僕たちは言う。「あなたの1ムナ」なのであって「私の力で」ではないのである。

 「あなたの1ムナ」が力を持っている。それが伝道の急所なのである。伝道は、私たちがその力を信頼して、(商売を)やってみることなのだ。

 神学生時代、四日市にある小さな伝道所に伝道実習に派遣された。因習が強く、キリスト教に対して極めて閉鎖的な地域であった。都会では経験しないようなことを多く経験した。神の言葉が届いていかない・・・伝道の困難さにひどく落胆してしまった。だが実習が終わる日の前夜、伝道所の母教会の牧師が私たちを夕食に招いてくれた。夕食のあと、四日市の夜景を一望できるところに私たちは連れて行かれ、こういうことを聞かされた。私たち夫婦も開拓伝道に来たときには本当に参ってしまった。ここじゃ、伝道できないなと何度も挫折しかかった。そのとき、聖書の言葉がくじけそうな私たちを勇気付けてくれた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒言行録18章9節、10節)。この町にも神様がご用意されている神の民がいる。だから自分たちはただ神の言葉を提示すればいい。そうすれば、必ずそれに反応する人がいる。神の民となるべき人は、神の言葉を聞いたら必ず反応するから。自分たちは神の言葉を高く掲げて、それによってその人たちを呼び出せばいいだけなのだ・・・。その母教会は伝道困難な地域であるにもかかわらず、多くの人が集う教会になっていた。神の言葉それ自体に、救われるべき者を呼び覚ます力がある。そう信じたとき、この地域で伝道することが、むしろ楽しみになったとその牧師は言った。忘れられない言葉だった。

 僕は、主人は蒔かないところからも刈り取る厳しい方だと思っていた。だがそれは違う。この主人は、ご自分を蒔いてくださった方なのだ。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12章24節)。ご自分を憎み、鼻で笑うような人々のために十字架にかかって、ご自分をこの人たちのただ中に蒔いてくださった。私たちが伝道する世は、主がすでにご自分を蒔いてくださった世。不毛の土地であるはずがない。