2013年1月27日日曜日

聖書日課 1月28日〜2月3日


成瀬教会 <聖書日課>  1月28日~2月3日

1月28日(月)マタイ5章31節~32節
 「 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる 」(申命記24章1節)。こんな掟があると、何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときとは、どういうときを言うのか、といろいろ考え始めるものです。当時の男性はこれをわがままに解釈して実行していたようです。気に入る、気に入らないとか、好きだ、嫌いだと言うのは、そもそも結婚の正当な理由ではないのです。「 人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう 」(創世記2章18節)が示すように、結婚の理由は「 ふたりが一緒に生きるため 」、それに尽きます。そして、その理由は簡単には失われないのです。相手が召されない限り・・・・。

1月29日(火)マタイ5章33節~37節
「 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である 」(34節)。なぜ、こんなことがイエス様の口にのぼったかと言うと、当時の人たちは天をかけて誓った場合は神聖な誓いなので絶対守らなければならいが、他のことにかけて誓った場合は、守らなくてもいいみたいなことをしていたのです。そのことを戒められているのであって、私たちがする洗礼の誓約や長老就任の誓約、結婚の誓約など、すべての誓約が否定されているわけではありません。私たちがすべき誓約の姿勢は、ペトロの謙遜な告白の中に見出すことができます。「 はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです 」(ヨハネ21章15節)。主にすべてを委ねる心での誓約です。

1月30日(水)マタイ5章38節~42節
 「 悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい 」(39節)。人から意地悪をされ、苦しめられることがあります。生きていれば辛い目に遭うものです。イエス様は、だからと言って受身で生きていてはならない。受身で辛抱しているだけでは何も生み出さない。自分の方から相手に踏み込んで行くのだと言われます。もちろん、善をもって・・。子どもがいじめに遭っていたキリスト者の知人は、いじめる子どもたちを全員、家に招いて食事会をして、自分たちは神様を信じていて、こういうふうに生きているんだと伝えました。その日以来、いじめはまったくなくなりました。信仰に基づく勇気ある決断には、主が伴っていてくださいますね。

1月31日(木)マタイ5章43節~48節
「 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい 」(44節)。このイエス様の言葉は、人格の深まりについて考えさせてくれます。私たちが人として成長したと感じる時はたいてい、自分に嫌なことを言ったり、迷惑をかけてくる、いわば敵のように感じる人と関わり続けて来た時ではないでしょうか。人はそういう敵のような存在と向き合い、傷つき、痛み、打たれる経験を通して育てられるという部分を持っているのです。敵を受け入れまいとする防御の姿勢からは、人格の深まりは期待できないのです。

2月1日(金)マタイ6章1節~4節
「 見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる 」(1節)。「 見てもらおうとして 」は、もともとの言葉は英語のシアターの語源になった言葉です。また2節の「 偽善者 」は、俳優、お芝居をする人の意味。俳優は人に見てもらうことを仕事としますね。神の目ではなく、人の目ばかりを意識した行為が信仰的なのか、そこに信仰はあるのかと、問われています。人の目を意識することは大切です。人の目を意識しないというのは、相手を無視する傲慢が潜みます。問題は、人の目だけになってしまい、神の目に見られていることを忘れてしまうことなのです。

2月2日(土)マタイ6章5節~8節
祈りの偽善について教えられています。祈りの偽善というのは、祈りの相手が神様でなく、人になったり、自分になったりすることです。それは祈りに何らかの手応えを求めるから、そうなるのです。人に聞かせようとする祈り、あるいは自分の中に祈った手応えが感じられることを執拗に求めてしまう、そうでなければ祈りが独り言のように感じられて空しくなる・・・。それらはすべて偽善の始まりです。祈りが満たされるところは天であり、天におられる父のところです。私たちの手を触れることができないところです。その意味では、私たちの祈りに空しさがつきまとうのは(手応えがないのは)、むしろ当然のことかも知れません。その空しさの中にあえて立つということこそ、本当に神様に向かう祈りの始まりなのです。

2月3日(日)マタイ6章9節
だからこう祈りなさい。「 天におられる私たちの父よ 」とイエス様は言われます。あなたも高い所に上ったことがありますよね。山の上とか、東京タワーとか(スカイツリーかな?)。そこでは、地上にいる時には全く見えていなかったものを、広い視野で見渡すことができますね。天におられる私たちの父は、地上に生きている私たちには決して見えないことをも、広い視野からちゃんとご覧になって、その上で私たちを導いていてくださいます。「 天におられる私たちの父よ 」という祈りの呼びかけの中にすでに大きな恵みが見えています。あなたの祈り意識も変わりますね。